« 2006年4月 | トップページ | 2006年11月 »

2006年10月

30年前、ルーブル美術館での見つけもの

2006/10/27(金)

06102701 06102702
写真左:ライオンとボールの彫像
写真右:我が家の一人息子・ダイスケ(通称ダイ)

1977年のゴールデン・ウィークに小さなツアーパーティを組んで、ブダベスト(ハンガリー)で78年ワールドカップ欧州予選第9組のハンガリー対ソ連、 次いでパリ経由でニースへ出て、フランス・リーグのニース対サンテチエンヌ、最後はチューリヒ経由、ミュンヘンでブンデスリーガのバイエルン・ミュンヘン 対カールスルーエ戦を見た。

それぞれの旅と試合については、当時のサッカーマガジンに「77 欧州駆け足ツアー」で紹介した。
このとき、旅行社がパリ観光でルーブル美術館やムーランルージュなども旅程に入れてくれた。

ルーブル美術館での見つけものが、このライオンとボールの彫像(写真左)。
ほぼサッカーボールの大きさの球体を、ライオンが左の前足で押さえているこの彫刻について調べたいと思ったまま、30年が過ぎてしまった。
当時は不思議な取り合わせという感じを受けたが、我が家の一員にネコが加わってから、トラ毛の「ダイ」が小さなボールにとびつくのを見ると、百獣の王と球体の組合せはとくに不自然でないようにも思える。

当時、ルーブルの看板のひとつ、イカロスの像の階段の下の通路にさりげなく置かれてあったこのライオンとボールについて、ご存知の方があればご教示ください。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


ネルソン吉村 ~初めて"サッカーをするため"に日本へきた日系2世~

2006/10/26(木)

06102601

ネルソン吉村こと、吉村大志郎(よしむら・だいしろう)は、ぼつぼつ定年を迎える団塊世代のオールド・ファンには懐かしい名前のハズ。1967年、19歳 でブラジルから、初めて「サッカーをするために」日本へやってきた日系2世は、ブラジル流のテクニックで人気者となり、彼よりも3歳年長の釜本邦茂ととも に企業チームのヤンマー・ディーゼルの黄金期を築き、当時のトップリーグであった日本サッカーリーグ(JSL)でのヤンマーの優勝(4回)に貢献した。

70年には日本国籍を取得し、76年に代表を退くまで、101試合に出場して10ゴール(Aマッチ45試合7得点)と活躍した。
80年に選手を辞めてヤンマーのコーチとなり、96年にチームがセレッソ大阪となってからも、スクールのコーチやスカウトを務めた。
明るく気さくで、誰からも好かれる彼の人柄に魅かれてヤンマーやセレッソへ入った選手も多い。

この写真は、彼の来日早々の1967年6月18日、駒沢競技場での日本対パルメイラスの試合を観戦に訪れ、デットマール・クラーマー(写真右)に紹介されたときのもの。
クラーマーは早速、ネルソンの腹の皮をつまんで、「脂肪はないネ。よろしい」と言った。

今でも憶えているのは、彼がヤンマーの尼崎工場で初めて練習した日のこと。
手ぶらで現れた彼に安達貞至コーチ(現・ヴィッセル神戸社長)が「クツはどうした」と聞くと、ネルソンは黙って自分のサッカーパンツの後ろのポケットから二つ折りにしたシューズを取り出した。初めて見る柔らかいシューズに、大笑いしたものだった。

柔らかいボール扱いから早速“ネコ”のニックネームがついた。当時の指導者たち(まだセルジオ越後も来日していなかった)には新鮮な驚きだった。
その胸のトラップのうまさに目をつけた釜本邦茂が、彼との練習によって、ボールを弾ませずに地面へすり落とすような技を身につけた。
のちに来日したセルジオ越後が、釜本の胸のトラッピングに感心して、自分も鏡の前で練習したというエピソードもある。また、メキシコ五輪の釜本のゴールの中には、胸のトラッピングからのシュートもある。

ヤンマーとセレッソと日本のサッカーに多くのものを残した吉村大志郎は2003年11月1日、56歳で去った。
彼の棺(ひつぎ)の前で、多くの男が涙した。
50年前の若いネルソンのフォトを前に、私は半世紀前の、日本サッカーが少しずつ前進していた希望に満ちた日々を思う。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


サッカーのストライカーの技術と戦術

2006/10/19(木)

06102401 06102402

写真左:初版本 表紙
写真右:第5刷 表紙

~ 故・風呂中斉氏の企画と情熱から生まれ、ワールドクラスのストライカーの本領を紹介 ~

「釜本邦茂 ストライカーの技術と戦術」が講談社のスポーツシリーズのひとつとして出版されたのが1977年10月20日。今から29年前のことだった。
東京オリンピック(1964年)で日本代表がアルゼンチンに勝ち、次のメキシコ大会で銅メダルを獲得した、いわば60年代黄金期にはサッカーの図書も数多く出版された。

なかでも講談社はスポーツシリーズのひとつとして「クラーマーのサッカー上達法」をはじめ指導書、啓蒙書を積極的に手がけてくれた。
その推進力となったのが故・風呂中斉(ふろなか・ひとし)氏だった。彼は東京教育大(現・筑波大)で今西和男(元・サンフレッチェ広島総監督)坂田信久 (元・東京ヴェルディ社長)各氏と同期のサッカー人。大記者・牛木素吉郎の秀作「サッカー世界のプレー」の3部作も、この人の企画のひとつ。

別掲の手紙の日付は昭和44年(1969年)1月だから、メキシコ・オリンピックの銅メダルの余韻のまだ覚めないとき。
前々から私に釜本の本を出版したいと言っていた同氏が送ってきた企画だった。
当時の私は、まだ24歳で現役の真っ最中だった彼の名で本を出すことにはためらいもあったし、彼のプレーを語るには別の考えがあった。
この企画書を持って、大阪へ訪ねてきた彼に、「釜本のプレーを分解写真で見せることによって、彼のプレーの本質を多くの人に見てもらう――というのなら」と答えた。

彼はすぐ検討しますとのことだったが、この1969年春に釜本は肝炎で入院し、しばらくプレーから離れることになった。
風呂中氏は、釜本の回復を待って、私の案どおりの企画を進め、1シーズン釜本の全試合に2人のカメラマンを動員し、その何百本の中から私が選んで完成した。
今日のように録画技術と機材が発達した時代からみればアイモ改造機、1秒間24コマ撮りで写した連続写真はいかにも古めかしいが、ビデオのスローやコマ送りとはまた別の面白みがある。

1977年10月の初版から82年までに5版を重ねたが、サッカーファンに釜本のフォームの美しさと、プレーのはじめから終わりまで(終わったあとも)ボールを注視しているところをお届けできたと思っている。
写真週刊誌の編集などでも活躍し、若いうちに去られた風呂中氏のサッカー図書にかける情熱を、いま改めて思う。

風呂中氏からの手紙も、あわせてご覧ください。

06102403 06102404 06102405

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


1941年 明治神宮大会 優待乗車券を見て

2006/10/19(木)

06101901_2 06101902_3

「第12回明治神宮国民体育大会電車優待乗車券」と書かれた8.2cm×5.8cmの紙のカードが、私の戦前の日記にはさまれていた。

昭和16年の秋、当時、旧制神戸一中のサッカー部のチームが明治神宮大会に出場したとき、市電(都電というのは、もっと後になってから)の記念無料パスをもらったもの。
図柄を拡大してみると、明治神宮の鳥居やお社(やしろ)そして東京のシンボルともいうべき国会議事堂、11月3日にちなむ菊の花などが描かれている。

昭和天皇からいえば祖父にあたる明治天皇の誕生日・11月3日を、戦前では明治節と呼んで、祝日となっていた。そして明治神宮の外苑に設けられたスポーツ 施設で、11月3日をファイナルとする明治神宮国民体育大会が開かれていた。戦後はこれが国体となるのだが、サッカーは一般の部として昭和の初期からあ り、中等学校の部が加わったのは昭和14年(1939年)から。
私の兄・太郎(サッカー殿堂第2回掲額)は神戸一中でその14年大会に優勝している。

私のチームは1回戦で熊本師範に7-0、準決勝で青山師範に3-0。決勝は朝鮮地方代表、普成中学と2-2の引き分けで(延長なし)、両校が1位となった。

写真は準決勝の対青山師範戦前のイレブン。右から2人目が岩谷俊夫、その左が鴇田正憲、8人目が杉本茂夫(いずれも、のちの日本代表)左端が私。
このときの青山師範には、のちに教育大(筑波大)の監督を務めた太田哲男先生がいた。長身のCDFであった先生は、並外れて小さい私が目の下で走り回るのが奇妙な感じだったらしい。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


Mayer様:神戸クラブについて

2006/10/17(火)

亡くなった安居律(やすい・りつ)さん=昭和22年(1947年)東西対抗(戦後初の天覧試合)の全関西チーム主将=のことを書き、あわせて当時のプログラムを紹介したところ、安居さんの所属に「神戸クラブ」と記載されていた点について、問合せがありました。

*安居さんについての日記はこちら 
 https://crospo.jp/page.php?p=fh_diary&target_c_diary_id=10301

------------------------
Mayer様、お返事が遅くなりました。

神戸にはKR&AC(神戸レガッタ アンド アスレチック・クラブ)という外国人のスポーツクラブが明治時代からあって、東遊園地(現・神戸市役所の本館とその南側一帯)にグラウンドを持ち、テニ ス、野球、サッカー、ラグビーやボート(神戸の敏馬=みるめ=海岸)などを楽しんでいました。

そういう外国人のクラブに誘発されて、サッカーのOBたちが「神戸クラブ」というサッカーのクラブを作ったのが、たしか昭和3年ごろ。早稲田の蹴球部の草 創期のメンバーであり、ビルマ人のチョウ・デンの直弟子のひとりでもあった玉井操さん(昭和2年、1927年第8回 極東大会・日本代表)たちが中心でした。

やがて、第10回極東大会(1930年)さらにベルリン・オリンピック(1936年)代表の世代が加わるようになって、赤川公一(旧姓・西村)後藤靱雄、 大谷一二、右近徳太郎たち錚々たるメンバーがそろい、黒シャツ、白パンツの神戸クラブは、この地域の若いフットボーラーの憧れとなっていました。

東西対抗の全関西に匹敵する力を持つこのチームは、クラブとして公式試合に出るよりも、もっぱら若いチームの挑戦を受けて試合をするという指導的立場を保っていました。
大戦後は、指導よりも「実戦」へという考えの人たちが、新しく六甲クラブを作り、また大阪でも、天皇杯出場を掲げたOBクラブ「大阪クラブ}が生まれて「神戸」の力は分散。それでも昭和40年(1965年)までつづいていました。

安居さんは大学卒業後、神戸クラブの最盛期の時期にプレーしたひとりでした。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


ジレス、ティガナ、そしてイダルゴ監督

2006/10/17(火)

06101701 06101702 06101703
フランス・サンテチエンヌのスタジアムで。
写真左 :ミッシェル・イダルゴ監督
写真中央:アラン・ジレス
写真右 :ジャン・ティガナ

9月に亡くなったインテル・ミラン会長のジャチント・ファケッティを追悼しようと思ったとき、92年欧州選手権(スウェーデン)で彼を撮ったことがあると気がついて探したのだが、結局出てこない。
そのとき、同じ欧州選手権でも、84年フランス大会のときにサンテチエンヌで写したジレスやティガナのピクチャーが出てきた。1次リーグの第2戦だったか、ユーゴに勝った後のスナップ。

ヨーロッパ選手権は、それまで、準決勝から1ヶ所(68年イタリア、72年ベルギーというふうに)に集まっていたのを、80年大会から8ヶ国の集結大会とした。
84年大会はミッシェル・イダルゴ監督のもと、ミッシェル・プラティニ主将と、アラン・ジレス、ジャン・ティガナの「三銃士」を軸にしたフランスが強くて優勝した。

96年大会から16チーム参加となって規模が大きくなり、それだけに取材記者も多く、同時に取材制限も厳しくなったが、このころは、まだヨーロッパ同士の 内輪の大会といった空気で(イングランドのサポーターが来ると警戒は厳重になった)この写真も、私が、選手たちのすぐ近くで撮っている。
ティガナもジレスもボルドー時代に来日したことがあり、日本人ファンの間で、プラティニに次いで人気があった。

イダルゴ監督について、もう少し。

攻めてゴールを奪うのが一番楽しい――と子どもたちは言う。
その子どもの心を失わないのが、フランス・サッカーだ――とは、80年代のフランス代表監督ミッシェル・イダルゴの持論。84年大会の優勝はその言葉どおり、攻めの勝利だった。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


あの天覧試合の全関西チームのキャプテン・安居律さん

2006/10/15(日)

秋に入ってから訃報がつづいた。そのひとつ。
9月26日に兵庫県サッカー協会から「同協会参与の安居律(やすい・りつ)92歳が8月31日に死去し、8月16日に近親者で葬儀を行なったとの連絡をお受けしました。謹んで哀悼の意を表し、ご連絡いたします」とのファックスが届いた。

安居さんは、私には忘れることのできない先輩の1人である。
1915年(大正4年)生まれの神戸一中34回生(昭和8年度卒)で私より9歳年長。神戸一中ではサッカー部ではなかったが、金沢の旧制第四高等学校に 入ってからサッカーに打ち込み、旧制インターハイで活躍、京都大学(昭和14年度卒)では昭和11年から3年間(当時の大学は3年制)レギュラーのDF で、関西学生リーグ優勝1回、2位、3位、各1回、京大の第二期黄金時代を築いた。

太平洋戦争が終わって、サッカーは安居さんたち戦前派や私たち世代の戦中派を中心に関西でも1945年10月中旬から再出発した。
当時30歳の安居さんも、その中心のひとり。昭和22年4月3日、東京の明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)で行なわれた東西対抗に関西のキャプテンと して出場し、学生主力の若い全関西チームをまとめてベルリン・オリンピック代表が主力の経験豊富な全関東と2-2の引き分けを演じた。

この試合には昭和天皇が皇太子明仁殿下(現・天皇)とともに観戦された。
戦災のなかから立ち上がろうとする国民に親しく接して励まそうという昭和天皇の“ご巡幸”のはじまりでもあった。
戦前の日本サッカーの黄金期から大戦のブランクを乗り越えて、戦後のサッカー再興へつなぎ、天覧試合のキャプテンを務めた得難い先輩が去ってしまった。

大戦の物不足をそのまま反映した、縦18cm、横13cmの黄ばんだプログラム表紙と二つ折りの片側に記載された全関西のメンバーを併載してお供えにかえることにした。

――おだやかな人柄で、後輩に温かかった先輩を偲んで―― 合掌

06101501_3 06101502_2

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


インド戦を見て

2006/10/12(木)

アジアカップ予選・グループA
10月11日19時20分
インド・バンガロール
インド 0(0-2 0-1)3 日本
 得点【日】播戸(23、44)中村(83)

----------------
◇4基ある照明のうちひとつが前半の途中で消えて4分間の中断があったり、後半には犬がピッチ内に入り込んで、これまた短時間だが試合はストップ。インド のデカン高原にある航空機やITなど工業の盛んな大都市バンガロールだが、「Anything can happen in Football(サッカーでは何が起こるかわからない)」の言葉どおり。ピッチも凹凸(おうとつ)があり、“走る”サッカーにはむずかしい試合だったろ う。

1点目は左サイドの三都主からのボールをFWの播戸竜二が決めた。
三都主が一番得意な角度で蹴ったボールを巻誠一郎が左足のダイレクトシュートを試みたが、カラ振りとなり、巻の右前にいた播戸が決めた。三都主のクロスの 来るのを予知した2人が、その斜めに来るクロスの線上に走りこんだこと。いわば2人とも三都主のボールを予測できたことにある。そして巻のカラ振りが巧ま ざるフェイクとなって、インド側の意表をついてファーポストの方へ流れ、播戸の代表初ゴールにつながった。

23分の1点目から23分後、つまり前半の終わり近くに2点目が生まれた。
今度も播戸――。左サイドの山岸、鈴木の攻めから右へ振って、右にいた三都主が右足で低いクロスを送り、播戸の飛び込みに合わせた。
ガーナ戦でゴール前でもないゾーンで低いボールに頭から飛び込んで負傷した男だから、こういうときのダイビングヘディングはお手のものだった。

◇後半は相手のマークが厳しくなり、ファウル承知のタックルが増えた。1週間前のガーナの激しさとはまた別の危険なプレーもあった。
不規則バウンドと、このタックルで、日本選手たちのトラップミスが増え、それがパスのまわりを悪くして、インドまで出かけたサポーターやテレビ応援の人たちをイライラさせた。

中村憲剛の25メートルシュートはそうしたモヤモヤを吹き飛ばすクリーンシュートだった。我那覇からのパスを受けて中村が右足で25メートル近い距離の シュートを左上隅へ決めた。我那覇が後方からのボールを、相手と競り合って自分のものにして、フリーの中村に渡したボールだった。
◇オシムが監督になってから6戦目。メンバーが入れ代わるなかで、日本代表はまず走る――という点で一貫しているが、それだけに、折角走ってボールを取っ ても、そのあとのパスやシュートの技術的なミスや、パスの受け渡しのタイミングなどのうまくゆかないのが目立つようになっている。

メディアも、はじめの「オシム語録に学ぶ」という姿勢から、こうしたミスに対する指摘や批評も多くなっている。
4年後を見据えていいチームを作り上げるための、あるいは、もっと将来にわたって日本サッカーの基盤をしっかりするためには、オシムの意向を汲んで、選手たちが自分の努力で上手になり自らの体を鍛えるのが第一だと思っている。

インド戦は先のガーナ戦につづいて、いろいろな可能性を見たという点で、私には希望のもてる90分間だった。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


« 2006年4月 | トップページ | 2006年11月 »