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2005年8月

赤シャツ様への返信

2005/08/11(木)

◆片言隻句編集部の福岡です。

◆週刊サッカーマガジン誌に毎週掲載されている賀川氏のコラム「My Football Memories」、「戦野に倒れたフットボーラー」と題された8/23号掲載分の中で、以下のような記載がありました。

*一言お願い
前々から"戦没フットボーラー"についてまとめたいと思いながら、果たさずにいます。今回、不十分ながらベルリン代表の3人を書かせてもらったのは、これを機会に多くの方々に関心を持っていただきたいためもあります。ご自分の身近に、あるいは校友会誌や学校の部史などで戦没者の記事などをご覧になった方は、インターネットの私のホームページまでお知らせいたいただければ、まことに幸いです。どうぞよろしく。(www.fcjapan.co.jp/KSL/)

◆これを読んだ読者の方がFCJAPANのBBSに情報をご投稿くださいましたので、その書き込みと、賀川氏からの返信をここにご紹介させていただきます。以下、赤シャツ様からの投稿です。

サッカーマガジンを拝見して
投稿者: 赤シャツ | 日時: 2005/08/10/19:53
初めまして賀川浩様。
サッカーマガジン毎週購読してます。
亡くなった名選手の事はあまり知りませんが、健在の方々の逸話を少し書きます。
私の父は旧制広島高校で昭和22年インターハイ優勝メンバーでした。
父から生前聞いた話から・・・
昭和22年インターハイの前に地元強豪中学と試合をしたそうです。
広島一中に、後のベルマーレ社長?重松良典さんがいらっしゃったそうです。
彼はFWで、後方からのロングボールを当時珍しかった半身で胸トラップし、すばやくゴールに向かって行ったそうです。
父のチームメートの主力メンバーには、後に新聞記者として活躍された中条さんもいらっしゃいました。
他界されたチームメートに伺った話では、長沼健さんの広島高師附属中とも練習試合されたそうです。
この他界された方は優勝した前年に、決勝戦で敗れた相手のベンチへ行き、大喜びしてる相手に向かって来年は必ず勝ってやると宣言された方です。
とても誠実な方で尊敬しておりました。
今年も暑い日が続いております。ご自愛ください。

◆以下、賀川氏からの返信です。

赤シャツさま

おたより有難うございます。
旧制・広島高等学校は戦前から戦後すぐの大会までインターハイの雄でした。汗と砂とで、黒ずんだ赤いシャツはまさに広高の象徴といえるでしょう。昭和5年の極東大会でJFAがはじめて選抜チームによる日本代表を編成して同大会で1位になったときのCF——いわば初の日本(選抜)代表チームのストライカー手島志郎さん(当 時・東大)も、広高で昭和3年のインターハイで優勝しています。

お父上は昭和22年の第22回 インターハイの最後の大会で優勝された由。私はこの大会は見ていませんが、その前年の第21回大会の関西地区の決勝で第六高等学校(六高)と大激戦の末、3−4で広高が惜敗するのを観戦しました。京都大学の農学部のグラウンドで、観客も少なかったが、これぞインターハイと言うにふさわしい試合でした。

試合のあと六高に向かって「来年勝ってやる」と言ったのは確かCHのミノ(美 濃?)選手だったか? ずば抜けて上手で体格のいい人でした。

翌日、私は広高の深山荘二郎(神戸一中で私より一年下・故人)と中条一雄と、京都の四条河原町の喫茶店でお茶を飲んだことを覚えています。中条氏は私と同じようにいいおジイさんになりましたが、赤シャツの袖を肩へたくしあげて走っていたときの 元気はそのまま、この夏にはクラマーに会いに行くといっていました。

——とりあえず——

◆みなさまも、"戦没フットボーラー"についての情報をお持ちであれば、BBS、または「拝啓、賀川さん」http://kagawa.fcjapan.co.jp/mn1_new.htmlのコーナーからお知らせください。よろしくお願い致します。

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