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2004年9月

9月19日(日)前日の試合を振りかえりつつセレッソ対ジェフ戦を見るために長居へ

2004/09/30(木)

◆前日、神戸でヴィッセルの播戸竜二(ばんど・りゅうじ)がゴールをして今季11点。ガンバの大黒将志(おおぐろ・まさし)はゴールこそなかったが、鋭い動きを見せた。
◆となれば、大久保嘉人(おおくぼ・よしと)を見たくなるのは当然—。

【播戸のゴールと長沼健さんのゴール】
◆ピッチ状態が問題になった神戸ウイングスタジアムだが、18日の試合そのものは、神戸が播戸のゴールで先制し、前半終了間際にフェルナンジーニョがドリブルで突破して同点とした。播戸のゴールは左からホージェルがクロスを送り、右に流れたのを朴康造(パク・カンジョ)が中へ短く折り返し、正面エリア外から小島宏美がシュートした。シジクレイがコースにいたのはさすがだが、その右足で止めたところには播戸がいて、右足シュートでGK松代直樹の右を抜いた。相手側にはアンラッキーではあっても、こういうところにいる—というのもストライカーのひとつの芸であり、仕事でもある。
◆いまや日本サッカー界の大御所となった長沼健さん(元・日本協会会長)は選手時代に、いわゆるコボレダマの名手だった。とくに関学を卒業して中大に“学士入学”してサッカーの学生生活を2年余計に楽しみ、古河電工でサッカーのチーム強化に尽くしているころは、バーに当たったボールや、DFの体に当たって方向が変わったシュートなどから、なぜ、そこにいるのか—と思わせるほど、よく点を取っていた。

◆ 播戸竜二は、若いころから早さを買われていた。ガンバやコンサドーレなどでの経験を積んで、ヴィッセルは2002年から。出身地のチームに戻って、3年目の今年は生き生きとしている。長身のエムボマと平瀬が新しくチームに入ったのも播戸にはプラスとなるだろう。ボールの持ち方やシュートに、さらに工夫が加われば、25歳の彼はもっともいい充実期を迎えるハズだ。

【遠藤とホルヴィ。右と左のキッカー】
◆神戸は後半7分に小島が相手のクリアを拾い、中央のホルヴィに送ると、ホルヴィが左足できれいなシュートを決めて2−1。その20分後にガンバの遠藤保仁がFKを直接決めて同点。さらに2分後に、ロングシュートを叩き込んで3−2とした。するとまた2分後にホルヴィがFKを左足で蹴り、DFに当たって方向が変わり、ゴール左すみに飛び込んだ。

◆ ピッチが悪くても、自分のキックの形を持っているプレーヤーは、なんとか仕事ができることを示したゲーム。ガンバには、二川からのクロスを大黒がヘディングした、いわゆる彼らの得意芸を絵に描いたようなゴールシーンがあったが、オフサイドだった。こういう時の大黒の合わせ方や、ボールを受ける時に右へ持ってゆこうとするあからさまな姿勢に、早さと形への自負と、それを相手が防ぎにくる時の反転動作への自信が見てとれた。伸び盛り、実績あるストライカーをみるのは楽しいことだ。

◆そんなことを、JRや地下鉄のなかで思い出しながらやってきた長居で、セレッソ大阪がジェフ市原に3−0で完勝した。
◆大久保のハットトリックという、セレッソ大阪サポーターには願ってもない“おまけ”つきだった。

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9月18日(土)ヴィッセル神戸 3−3 ガンバ大阪

2004/09/27(月)

◆神戸のウイングスタジアムへ。ヴィッセルとガンバの試合。
◆3−3、シーソーゲームで、見るものにはスリル満点だった。
◆ただし、ピッチの状態が悪く、選手には全く気の毒だったが…。神戸に生まれ育ったものとして、また、いままでも、神戸がサッカーの先進地である証(あかし)——現在では、数少ない証のひとつだが——に、“サッカー専用競技場”を言いふらしてきたのが、折角、屋根付きとなっても、踏みこめば芝がめくれ、砂が現れるのでは—。1969年に神戸市が作った御崎球技場は収容人員は1万人ほどでも、夜間試合用の本格的な照明設備を持つ、当時の西日本唯一のスタジアムで、ピッチの芝生は来日した各国プロチームから「エクセレント」の評価だった。

◆そのころは市の管理下であったのが、同じ土地に新しく建てかえ、ワールドカップの会場にもなったウイングスタジアムは、第3セクターの管理となっている。屋根を付けたことで、芝の育成が難しくなったのだろうが、世界中にそうした例はいくつもある。行政のいわゆる“役所仕事”であった時にピッチがすばらしく、第3セクターとなって現在のコンディションが悪評のままというのはどこに欠陥があるのだろうか。

【国立のピッチとファンハール監督】

◆記者会見の席上で、相手チームの監督からピッチが悪いと言われるのは、かつての国立競技場で、ずいぶん経験して忍耐強くはなった。
◆1995年のトヨタカップでアヤックス(オランダ)がグレミオ(ブラジル)と戦った(0−0、PK4−3でアヤックスの勝ち)とき、アヤックスのルイス・ファンハールがピッチの悪さをののしったことがある。後藤健生氏は、これくらい言われれば国立の芝も良くなるでしょうと言っていたが、私は、有名だが尊大で好きになれないファンハール氏を、いくらなんでも、もう少し言いようがあるだろう。と、ますます、うとましく思ったものだ。
◆国立での年数を考えれば、まだ2年ではあるが、世の中はすでにプロフェッショナルの時代となっている。隣のクラブともいうべきガンバの監督に「サッカーの試合をするピッチじゃない」とまで言われて、ガンバ担当の記者たちの心中はどうなのか—と思った。

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9月15日(水) ロクさんのお嬢さんからの電話

2004/09/24(金)

◆東京の井上真由美さんから電話を頂く。ロクさんのニックネームで知られていた故・高橋英辰(たかはし・ひでとき)さんのお嬢さんで、私が月刊グランに連載中の「このくに と サッカー」にロクさんの話を書き、その掲載誌をお送りしたことへのお礼だった。

◆ 「このくに とサッカー」は同誌の木本恵也編集長(元・中日新聞編集局次長)の「司馬遼太郎さんの“このくにのかたち”のようなものを書けないか」という要望から、日本のサッカーがいまの“かたち”になるまでに、そのときどきに影響を与えた人を紹介してゆくことにしたもの。

◆2000年4月号(No.73)がスタートで、竹腰重丸(たけのこし・しげまる)さんをはじめ、先達やサッカー仲間について記してきた。2004年の10月号(No.127)がセルジオ越後の(下)。すでに54回だが、ときには1人で上・中・下、あるいは上・下になることもあり、人数は必ずしも多くはない。それほど“売れ筋”でもないハズの連載をつづけさせてくれる度量には感心するが、この連載からヒントを得てNHKが「ベルリン・オリンピックの奇跡の逆転」その時歴史が動いた——という番組を作ってくれたこともあり、やはり活字にしてもらっていてよかったと感謝している。

【秋田商業高校と内山先生】

◆ 真由美さんは夫君ともども音楽家で、彼女はもともと秋田商業高校のサッカー部長であった内山真(うちやま・まこと)先生の息女。ロクさんと内山先生のつき合いから、彼女は幼いころから高橋夫妻の養女となったのだが、その内山先生が89歳の今もお元気ということで、まずはなにより——。
◆先生は秋田商業高校にサッカー部ができたときに部長となり、昭和33年、全国高校選手権大会の優勝チームを育てた。
◆剣道の高段者で東北でも知られていた人が、全く、経験のないサッカーに取り組み、それまで不毛に近い(岩手から八重樫茂生という日本代表が出ていた)奥羽の地に優勝旗を持って帰ったのだった。

◆大会中、西宮の合宿所を訪れたとき、玄関にいち早く現れたのは旅館の人でなくサッカー部のマネージャー、先生と対話中にお茶を持ってくるのも礼儀正しい部員だった。

◆産経新聞のスポーツ欄に「不毛の東北に咲いた・秋田のサッカー」という記事を書き、チームのひたむきなプレーと、ゆきとどいた部員のしつけを紹介したら、先生から便りを頂戴し、文面に「賀川さんの記事に校長が喜んで、朝礼のときに全校生徒の前で読みました」とあった。
◆東京オリンピック(1964年=昭和39年)の6年前の話である。

◆ だいぶ年月がたって、私がサンケイスポーツの編集局長のときに、共同通信社との会合があり、そのときに「私の名前を覚えていらっしゃるでしょうか」と名刺を出した紳士がいた。経済部長・石郷岡久雄とあった。このときのチームのCF。そのころ私は大会の優秀選手選考委員でもあったから、左ウイングの平沢敬作(のちに日立)とともに忘れるハズのない名だった。

◆秋田へ出かけ、お元気な内山先生にお目にかかりたい——。

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(右端)高橋ロクさんとともに筆者(左)
中央はウベゼーラー(元・ドイツ代表)
86年ワールドカップのときに写す

       

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9・11のテロと流政之展と

2004/09/17(金)

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2000円の会費で1000人が集まったオープニングパーティー。
北海道の各地はもちろん、全国から流政之展を祝う人たちが集まった。
9月11日 札幌・北海道立近代美術館

◆Jリーグ第4節が各地で行なわれたが、私は、サッカー場でなくて、北海道・札幌の近代美術館に向かった。
◆1945年以来60年にわたってつき合いのある世界的な彫刻家・流政之(ながれまさゆき)さんの作品展のため。彼と私のことは、サッカーマガジンに連載した「マイ・フットボール・クロニクル」にも「ワールドカップの旅」などにも記したが、大戦中、海軍のパイロットであった兄・賀川太郎と同じ航空隊であったのが縁。世界的な名声を得た今も“放浪の作家”などと呼ばれるこの人とどこか通じるところがあったのか、芸術にうとい私も、彼の作品はいつも感嘆しながら、そのまま入りこめるところが自分でも不思議に思えるところ。

◆こんどの作品展は、彼の初期から現在までの作品が近代美術館にいわば一堂に会する素晴らしいものだが、第2会場ともいうべき大沼・流山温泉彫刻公園「ストーンクレージーの森」では駒ケ岳の雄大な風景と向き合う、自然石と流作品の数々に、改めて、この作家の「空間をつかむ感覚」の見事さを思い知ることができるし、さらに日本海に浮かぶ奥尻島・彫刻公園「北追岬」では、海原を前にした彫刻が、自然に譲らずしかも自然の中にひとつの “張り”を作っているのを見ることができる。

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大沼公園・流山温泉彫刻公園、ストーンクレージーの森で。
駒ケ岳(向こう側)のかつての噴火で落下した石を配列するとともに、
彫刻作品をも配置。
自然石を背に、右から富岡、賀川、本多。


◆この展覧会のおこりは、あの9・11のテロにある。
◆ニューヨークのワールド・トレード・センタービルが崩れ落ちたとき、流政之の作品、250トンの「雲の砦(くものとりで)Cloud Fortress」——1975年に7年がかりで完成させ、当時、世界の芸術家、批評家たちを驚嘆させた——は傷つきながら残っていたが、その直後の撤去作業のためにどこかへ運び去られてしまった。

◆その“雲の砦”のジュニアを作って、北海道へおこうという話になり、合わせて、この日から10月24日まで美術館と、二つの大きな野外会場で展覧会を開催することになったもの。

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三味線のバチをヒントにした作品「流れバチ」。
北海道のサッカーの振興を願って“勝ちバチ”と名付けられている。
(ストーンクレージーの森)


◆北海道の方言「ナンモサ」をそのままに、「NANMOSA 流政之展」と名付けられたこの大作品展が北海道で開かれるのは、ひとつには彼が北海道という風土、景観、空間と人を愛するからだろうが、同時に、北海道の多くの人たちが彼を信奉し、支え、彼の気持ちを北海道のものとして受けとるところにあったと思う。その中心のひとり、JR北海道のデザイン室長・勝見渥さんは、コンサドーレ札幌の熱烈ファンで、且、岡田武史(おかだ たけし)の札幌時代には言葉でいえないほどの気配りとバックアップをしてくれた人。
◆その縁で監督もまた流ファンになった。

◆ 大阪・伊丹空港発11時のANA775便に乗って、新千歳空港に着く。大阪からの作品展ツアーの人たちや、クラブハウスの本多克己社長、かつてのサンテレビの名プロデューサー富岡敬次郎さんたちと、ともにJR札幌駅前のホテルに荷物を置き、夕方のオープニングの会に出る。「雲の砦Jr.(ジュニア)」はニューヨークの、あの高層ビルの根もとに据えられたオリジナルの巨大さはないが、それだけに日本の風景に似合う美しさと優しさがみえるのが不思議だった。オープニングパーティーでは岡田監督からの祝電も披露された。
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“逢瀬(おうせ)の門”
駒ケ岳に向かい合い屹然(きつぜん)として立ちつつ、この石彫は見事に空間に融けこんでいる。左・富岡。右・本多。


◆パーティーで、札幌の「VANKEI FC」というクラブチームの真木幸三会長に声をかけられた。東洋工業のパスの名手、二村昭雄の友人でもあり「えり善真木呉服店」の経営者の真木さんは、滋賀県の近江八幡商業時代に覚えたサッカーに今もとりつかれていて、自分の土地にクラブのグラウンドをつくり、少年、大人を合わせ200人からの会員を持つNPO法人を運営している。パーティー後は同ご夫妻の案内で寿司店へ。北海道の美味しい魚を堪能した。

◆真木さんは、かつて私に流先生を紹介してもらったので、またまた世界が広くなったと喜んでいたが、この人は、2002年のワールドカップのときに、初めて私と札幌のホテルで知りあったとき、たまたまロビーへやってきたベッケンバウアーに久しぶりにあいさつし、真木さんを紹介したら、彼はちゃっかりベッケンバウアーといっしょに写真におさまり、その記念写真を年賀状にして、仲間から羨ましがられたというエピソードの持ち主。クラブの試合でケガをしてと杖をつきながら歩く、熟年のこの人のバイタリティーに感心しながら、こういう人が各地のサッカーを支えてくれている間に、日本サッカーのあらゆるランクをもうひとつ上にあげなければ—と改めて思うのだった。

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JR函館駅
流政之作・陶板壁画「きのうの敵はあすの友 箱館解放1868年」
明治維新のとき榎本武揚が共和国政府を樹立した1868年の函館と北海道の歴史に思いを馳せた作品。地域の歴史と生活を大切に思うこの作家は、それぞれの地域に根を下すスポーツをと考える賀川と若いころから通じるものがあった。

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9月8日(水)〜インド戦の日〜

2004/09/13(月)

※片言隻句は、これまでの試合や大会での技術や戦術な どを書いてきましたが、これとはまた別の形で、いまの私の日常の暮しのなかで、フットボールとのかかわりを、そのつど抜き書きしてみたいと思います。脈絡 のない話になるかも知れないし、重複もあるかも知れませんが、みなさんのサッカーの楽しみに、なにがしかのプラスになれば幸いです。

◆ 古いサッカー仲間の集まりが大阪の梅田であった。3ヶ月に1度の第2水曜日の昼食会で、この日の出席は7人。兵庫協会の村田忠男会長(元日本協会副会長) が一番若いという熟年ばかり。こういう会では病気と健康が話題の中心になることが多いが、アジアカップやオリンピックなど、この夏はテレビでビッグゲーム の放送が多かったから、ひとしきり試合の話が出て、談論風発の形となった。もともとこの集まりは私より2歳上の則武謙(故人)さんが"ボールを蹴った古い 仲間で集まろうや"といい出し、学校やクラブや経歴にとらわれないノリさん(則武氏の愛称)の人柄そのままに人が集まり10年以上つづいている。いまの最 年長は工藤裕さん。昭和23年の関西学院のキャプテン——。

◆気のおけない仲間とのサッカー談議と食事を楽しんだあと、紀伊國屋の書棚をのぞく。インターネットやメールで注文するのが当たり前のようになっている昨今だが、当方は、いまだに、本屋さんをたずねて"発見"する楽しみを捨てきれないでいる。
◆この日はまず『SKY SPORTS FOOTBALL YEAR BOOK 2004-05』を見つけてニンマリ。ロンドンでの発売日からみて、ぼつぼつ来ているころだろうと思っていたのが、特色あるブルーの厚い背表紙を見つけて すっかり嬉しくなる。このイヤーブックは、1970年に発行された『1970-71年版』が第1号で、『ROTHMANS FOOTBALL YEAR BOOK』として33年つづき、昨年の34号からスカイスポーツと名を変えている。

◆イングランドのリーグやクラブだけでなく、インターナショナルの方にも目を配っているのと、デイバイデイ(Day by Day)の日記風の簡単な記述や、その年の死亡者略伝などもあって、いまの私には最も重宝で楽しいもののひとつ。
          ◆わが家には第2巻『1971-72年度版』からある。震災の被害もあって、抜けている年も多いが、こういう年鑑も30余年の間に変化があるのが面白い。

◆このイヤーブックの他にFIFAの創立100周年記念につくられた『100 YEARS OF FOOTBALL— THE FIFA CENTENNIAL           BOOK』や、ことしのヨーロッパ選手権についてのFA(イングランド協会)の公式ガイドブック。さらにはドイツのキッカー誌の『ブンデスリーガ  04/05』があって、それも、これもとなったから、思いがけぬ買物となった。

◆夜は2006年予選で、日本がインドとのアウェイに4−0で勝った。
◆酒好きなら、祝杯だが、こちらは紅茶にウイスキーをヒトサジたらして、まずはよい1日を終わりにする。
                             

                                                                                                                                                                                                             
賀川浩の「思いがけぬ買物」。
            
『SKY SPORTS FOOTBALL YEAR BOOK 2004-05』
             
『100 YEARS OF FOOTBALL— THE FIFA               CENTENNIAL BOOK』
       
 

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この夏の決算は

2004/09/07(火)

 キリンチャレンジカップ2004
 8月11日(静岡スタジアム エコパ)19:00
 日本代表 1(0−2 1−0)2 アルゼンチン代表

◆この夏はいろいろあった。

◆中国では日本代表がアジアカップで優勝し、ジーコ監督とイレブンの結束力を示した。
◆アテネでは女子がスウェーデンを破り、ナイジェリアに負け、準々決勝でアメリカに敗れた。勝ちも負けも1点差だが、桧舞台で大きな経験を得た。
◆U-23に小野伸二と曽ヶ端準を加えたオリンピックチームは、4年に1度繰り返される日本メディアのオリンピック熱にあおられて、アジア予選突破の喜びから、いつのまにか「メダルを狙う」チームへと持ち上げられたが、1次リーグで敗退した。

◆そして夏のシリーズの最後としてアルゼンチンを迎えてのキリンチャレンジカップ2004は、またまたアルゼンチンに敗れ、アジアチャンピオンは自らの短所と長所を見直すチャンスを得た。このアルゼンチン戦を含めての、「2004年度の決算」は——
●アテネ パラグアイ戦の不思議

◆試合がはじまって直後のプレーというのは、こちらが張りつめた気持ちで見ているからか、小さなことにも“オヤッ”と思うことがある。そして、あとで振り返ると、それが大きなポイントであったかもしれないと気付く。

【森崎のスタートは素晴らしいが…】

◆たとえばアテネでの日本オリンピック代表の第1戦でこんな場面があった。
◆相手に攻め込まれたあと、自陣でFKを得た。味方のクリアボールを拾った大久保がドリブルしたとき背後からパラグアイの1人が倒したファウルだった。このボールを闘莉王が前へ、大きく蹴った。ペナルティエリア左外まで森崎浩司が走って、このボールを受けた。いわゆる日本チームの第2列の動き出しの早さが表れた森崎のダッシュであり、ロングボールを送った闘莉王の狙いがぴったり合った。
◆ただし、森崎がボールを受けたとき、相手も1人いた。

1)森崎は小さなフェイクをかけたあと、斜め後方にボールを戻した。
2)エリア近くへ小野が走りこんできた。彼はノータッチで(自分の股の下を通した?)このボールを流した。
3)ボールに走り寄ったのは阿部勇樹だった。阿部は走った勢いをのせて右足でシュートした。
4)ボールは左ポストから1〜1.5メートル外へ飛んだ。

私が“オヤッ”と思ったのは、1)で森崎が自分でシュートに持ってゆかなかったこと。彼は左利きで、左へかわしてシュートすることも(もちろん相手DFに防がれることも)可能だった。しかし、自分よりも良い位置に自分より良いシューターがいると判断すれば、それにパスをすることも悪くない。
◆そこで森崎は右後方へパスを送る。
◆その2)の小野はシュートしなかった。相手が前にいたのと、後方のスペースに阿部が来ることを予想したのだろう。

【阿部勇樹のダイレクトシュート】
◆そこで3)の場面。阿部のノーストップシュートの位置は、ゴールポスト前方20メートル、左ポストよりやや外側によっていた。それを右足でダイレクトでシュートした。
◆後方から写したスローのリプレイを見ると、ボールは少しスライスして、結局ポストから離れたところへ飛んでいった。
◆阿部勇樹は私の好きな選手の1人だ。彼の右のFKは日本代表の大きな武器になるし、また実際になっていた。左タッチぎわのFKや左CKのとき、彼はファーポストまでコントロールできるという、これまでの日本人選手には数少ないキック力を持っている。
◆しかし、その素晴らしいFKやCKを蹴る角度は決まっている。
◆3)の場面の私の“オヤッ”は、彼がなぜ、ボールを止めて、自分の得意な角度で蹴らなかったのか。このとき、彼の前にはかなりのスペースがあったハズなのに。
◆彼がアウトサイドキックをどれだけ練習しているかは知らない。しかし、あの位置からニアポストぎりぎりに叩き込む自信があったのかどうか——。
◆シュートというのは、時には“ハズミ”で入ってしまうようなところもあるが、実際は理詰めのところが多い。なにしろ、足も手も長いゴールキーパーという専門家が守っているのだから、中途半端では入らない。
◆世界のストライカーは自分の得意の型をつくり、その型へ持っていき、自信のあるシュートで守りの専門家を破るのである。
◆自ら素晴らしいシュートの型を持つ阿部だけに、“オヤッ”と疑念が湧いたのだった。

【小野伸二のかわすプレー】

◆小野伸二の素晴らしい才能については、ただただ感心することが多いが、時々“オヤッ”と思うことがある。
◆このパラグアイ戦で、点を取られたあと好位置からのFKがあった。阿部にとって得意のところだが、ボールの近くには彼はいなかった。と、小野は右横へパスをした。数メートル以上だったか、そこに阿部がいて蹴った。しかし飛び出してきた相手に当たってしまった。
◆ああ“かわしたナ”と思った。かわすプレーは小野のスタイルで、彼の柔らかいボールタッチのドリブルでもパスでも見られる芸だが、パラグアイ側が勢いづき、カサにかかって日本をやっつけようとしているときに“かわす”のはどうだったか。むしろ、普通にいって小野自身か阿部のFKの力を見せるほうがいい ——と思ったものだ。
◆相手がガーンと当たってくるときは、こちらもガーンとゆくのが勝負ごとの原則だ。ひらりとかわして高笑いする牛若丸のスタイルも悪くはないが、かわし損なうと余計に相手を勢いづかせることになる。
●イタリア戦での“オヤッ”

【さりげなくトリッピングした男】

◆イタリアのキックオフで始まり、彼らが左サイドでボールをまわし、日本にボールを奪われるとトリッピングした。このときの彼らのボールタッチで、左DFのモレッティも、前線の11番スクッリも、そしてもう1人も左利きだと分かった。
◆このFKで闘莉王がペナルティエリア正面へロングボールを送り、相手DFがヘディングした。その落下点に走りよった大久保が、1人を引きワザでかわし、次に2人にはさまれながら、うまいステップで外に逃げた。2人のうちの1人、前から戻ってきた男がまたトリッピングをした。大久保とすれ違いながら、そ知らぬ顔して左足でひっかけたところがいかにもイタリア選手らしく、若手でもこうした芸はできるといわんばかりだった。“オヤッ”と思ったのは、さりげなくファウルした足が左足だったこと。こういう足の出し方は“利き足”でないと出来ないから、そのプレーの位置から見て右のMFが左利きなのか——と思ったものだ。

【左利き、左利きによる先制ゴール】

◆開始後1分35秒のこのFK(大久保が倒されたもの)は闘莉王が蹴ってカベに当てたが、このあと1分足らずの間にイタリアが左クロスから先制した。
◆イタリアがいったん攻めこんだあと、DFラインまで戻ったボールをCDFが左前方へライナーでフィードし、開いたスクッリが受け、徳永を前にしてバックパス。モレッティが受けて中へドリブルした後、左足でタテパスを出し、それをスクッリがダイレクトでセンタリングした(徳永のスライディングタックルはセンタリングされた後だった)。ボールはペナルティマーク近くに飛び、それをジャンプしてオーバーヘッドキックしたのがデ・ロッシだった。
◆このときの攻めに関わった3人はいずれも左利き。その左足の前にわずかなスペースを与えたのが、モレッティ→スクッリのパスとなり、スクッリのクロスとなり、最後にオーバーヘッドキックの大ワザになってしまった。
◆相手の利き足を封じるのは守りでは大切だと、誰もが知っているハズなのに——。
●キリンチャレンジカップ2004 vsアルゼンチン
 いい時期での頂門の一針

◆8月18日、静岡スタジアムエコパでのキリンチャレンジカップ2004、日本代表対アルゼンチン代表は、アジアチャンピオンを勝ち取った日本代表がアルゼンチン代表にどこまで対抗できるか——を見るよい機会だった。

◆残念ながら日本代表はアジアカップでの激戦の疲れで体が動かず、強敵と戦うための心の準備も体の備えもできておらず、2−1で敗れた。
◆特に前半はスコア2−0、シュート数はアルゼンチン8、日本0、CKが7対0と完敗だった。後半は相手も長い旅と時差の影響が出て動きが鈍くなり、日本は懸命の頑張りで1ゴールを返した。勝負を捨てない執念は悪コンディションの中でも発揮され、ジーコ監督の下での代表チームの結束力を示すことができた。
◆しかし、その後半においても、追加点こそ生まれなかったがアルゼンチン代表の見せた攻撃の組み立ては見事なもので、この部分だけを見てもまだアルゼンチンとの間に差のあることが明らかになった。

◆日本のサッカーはかつてないほど国内に浸透し、野球につぐ人気スポーツとなった。おかげでアジアカップも、オリンピックの予選も、本大会も、全てテレビで見られるまでになった。
◆一方、メディアの関心が高まるとともに世間の期待も強くなる。オリンピックではアジア予選の突破が劇的であっただけに、ようやく予選を勝ち抜いたチームが、本番が近づくといつのまにか「メダルをめざす」ことになり、山本昌邦監督は、テレビの表現を借りれば「世界サッカーを知り尽くした男」になってしまう。アテネではこうした過大な期待に応えることができなかったが、アジアチャンピオンのフル代表の方は幸いなことにアルゼンチンという優れた相手と戦って、ワールドカップでのアジア予選再開の前に自分たちの短所も長所も確認できたことを「頂門の一針(注)」として素直に受け止めたい。

◆試合の流れのなかで、そのいくつかを見てゆきたい。
(※注:急所をつく教訓のこと)

【ボール奪取への積極性】

◆前半の1分40秒、アルゼンチンのFWディエゴ・ミリトがボールを持つ宮本恒靖の斜め後方から体をぶつけてボールを奪い、リケルメ、ルシアノ・ガルシアと渡って右から攻撃したとき、FWの積極的なボール奪取に、彼らのこの試合にかける意気込みを見た。
◆「高い位置でのプレッシングからボールを奪い、すばやく攻撃する」というのはJリーグのほとんどの監督がくり返す言葉だが、アテネでは、それをパラグアイが日本相手にペナルティエリア内でやってのけた。その先制ゴールが尾を引いて日本が立ち直れなかったのはご存知の通り。
◆この日のアルゼンチンの最初のゴール(4分)も彼らの左サイドからの攻撃をいったん日本側が食い止めたにも関わらず、ゴールのすぐ近くでアルゼンチンが奪い返し、そこからの再攻撃で1−0としたのだった。

【リケルメのパスから3回の1対1】

◆先制ゴールにつながる攻撃はリケルメのドリブルから始まった。

1)センターサークルの2メートルばかり外側、日本陣内の中央で後方からのボールを受けたリケルメは、中田浩二と向かい合いつつドリブルし、右足でタテにパスを送る。
2)このボールをディエゴ・ミリトが受けようとするのをマーク役の宮本恒靖が足を伸ばしてタックル(2人とも倒れる)。
3)ペナルティエリアへ転がるボールに加地亮とディエゴ・プラセンテが走り寄り、両者スライディングで取ろうとする。
4)ボールはゴールラインへ転々とするも、エリア内側から田中誠が、外側からプラセンテが詰め、プラセンテがスライディングする。
5)ゴールラインぎりぎりでプラセンテが追いつき、ペナルティエリアぎりぎりからラインに沿ってドリブルしたとき、中田浩二が前方を防ぐ。
6)プラセンテのタッチしたボールは、彼を囲んだ中田と田中の足に当たってエリア内をゴールエリアに向かう。
7)そのボールに反応したのがマリオ・サンタナ。ボールを拾うと右足でキープしつつ、小さなステップで宮本をかわし、中澤佑ニを前にしてシュートしたボールは中澤の足の間を抜けてゴール正面に。
8)そこに走りこんだガレッティが滑り込むように右足シュートを決めた。

【タマぎわの強さ、タマぎわの粘りとは】

◆このゴールの直接の原因を、ジーコ監督は「タマぎわの強さ、粘りの問題」と指摘した。
◆最初の宮本のタックルのあとのルーズボールを、プラセンテが加地、田中と次々に競り勝ったのを、3人目の中田浩二が前を押さえて3人で囲む形にした。いわゆる数的優位、組織的な守備が、相手の個人的なタマぎわの強さを押さえる形になったにも関わらず、田中も加地もボールを蹴りだすのが遅れ、それをマリオ・サンタナに拾われたのが致命傷になった。

【攻め始めた日本だったが…】

◆先制して余裕を持ったアルゼンチンは、守りが薄いとみれば速く攻め、厚いとみればボールをゆっくりキープして崩しにかかる。日本も調子を少し取り戻し、小笠原から相手のDFラインのウラへパスが出るようになり、福西のシュートなども見られたが、シュートまではゆかない。

◆アルゼンチンは37分にプラセンテが左足でシュートし、バーに当てた。リケルメのキープからの、ほんの僅かな空間を通すグラウンダーのパスをプラセンテが受けてドリブルし、深い切り返しで加地をかわしてシュートしたのだった。

◆その3分後に2点目が生まれた。
◆このゴールは右サイドの攻めから、ペナルティエリア内でノーマークの選手を生み出したもの。その一つ一つに、アルゼンチンらしい芸が組み込まれていた。

【こんどはスカローニの突破から】

1)日本のボールをハーフライン手前で奪ったアルゼンチン。主将でDFのワルテル・サムエルから右DFのキロガにパス。
2)キロガのすぐ前、右タッチぎわにガレッティがいた。
3)しかし、キロガのパスは、内から外(右前)へ走ったスカローニへ送られた。
4)走るスカローニの足元にフワリと落ちてバウンドしたボールは、見事にスカローニのリーチの範囲内で、彼らのパスの技術の巧さがここでも生きている。
5)そのスカローニの内側を中澤佑ニが並走し、スカローニの進路に入ろうとした。
6)スカローニは自分の前にバウンドしたボールを右足で小さく浮かしたから、ボールは中澤が伸ばした右足の上をこえた。
7)その中澤の背中と中田の間をスカローニは疾走。
8)ゴールラインから15メートルあたりでスローダウンしてクロスを蹴る体勢に入る。
9)僅かに遅れた中田がDFラインのウラへ通すクロスに備えて足を伸ばした。
10)スカローニのパスはそちらでなく斜め後方へ。
11)そこへリケルメが上がってきた。
12)ペナルティエリアぎりぎり、ゴール正面からやや右よりの絶好のシュート位置でボールを受けたリケルメだが、強振ではなくインサイドで軽く当てて、エリア内へダイレクトパス。
13)エリア内正面やや左よりのサンタナが左足で止め、大きく踏み込んで右足インサイドキックでシュート。飛び出してきたGK楢崎の右を抜いてゴール右下へ決めた。

【ポジションプレーの正確さ】

◆ 日本が全体に前がかりになり、三都主も攻撃に加わっていたときに、スカローニが中澤と中田の2人を突破したために、中央部は相手のD・ミリトとサンタナの2人に対して宮本と田中の2人だけ。そこへ、後方から上がってきたリケルメにボールが渡った(しかもシュートレンジで)ために、田中も宮本もシュートに対応しようとしたが、リケルメがウラをかいた。

◆右サイドの突破には定評のあるガレッティは三都主の前進をマークして後方にいた。ガレッティに代わってサイドを走ったスカローニが、やはりサイド突破が出来て、しかも落ち着いて有効なクロスを送るところに、アルゼンチン各プレーヤーの持つ技術、特に、このポジションではこのプレーが出来るというポジションプレーの確かさがある。それがものをいったゴールだと思う。

◆日本は後半のはじめに田中誠に代えて松田直樹を、中澤佑ニに代えて藤田俊哉をピッチに送った。さらに12分(57分)には、福西崇史、小笠原満男の交代として遠藤保仁と本山雅志を、そして35分(80分)には玉田圭司を引っ込めて山田卓也を投入した。

【鈴木のヘディング アジアを制したCK】

◆10分までにアルゼンチンはリケルメのシュートが3本あった。

◆日本は中盤に元気な遠藤、本山の2人が入ってから、しばらくは攻勢が続いて、22分には玉田のシュートがあった。
◆三都主が左サイドの得意な角度からゴール正面へ送ったパスを、玉田がDFを背にして左足でタッチした。ボールコースは大きく変わったが球勢が弱く、GKフランコがセーブキャッチした。玉田にとってこの日、最初で最後のシュートだったが、三都主のこのときの角度のパスは今の日本代表にとって数少ない決定的なラインの1つだから、ものにする工夫がこれからも必要だ。

◆6分後に右CKから鈴木隆行のヘディングが決まって、スタンドはこの日初めて沸いた。
◆三都主のゴールから離れるカーブキックに、宮本がニアポストぎわ、松田がボールのコースのニアで跳び、鈴木隆行がその後ろ、ゴールエリアすぐ外、正面やや左よりの位置でジャンプヘッドした。タイミングのよいジャンプで強く叩かれたボールは勢いがよく、懸命に伸ばしたフランコの左手も届かなかった。
◆ゴールから離れるボールは、アジアカップのときから日本チームの1つの策ともなっていた。三都主のキックも素晴らしかったが、このCKの原因となったのは、ロングボールをゴールラインまで追った鈴木の労を惜しまぬランだった。

◆1点を取られて、アルゼンチンも“省エネ”ではなくゴールへの意欲を見せた。
◆32分にプラセンテからイバガサ(後半20分ガレッティに代わって出場)にスルーパスが出て、イバガサがゴールラインぎわからフワリと浮かし、ロドリゲス(後半16分サンタナに代わって出場)がヘディングした。ゴール右下へと飛んだボールをカバーに入った三都主が足に当て、リバウンドを蹴ったスカローニのシュートは楢崎がキャッチした。

◆長い旅行の後のアウェーゲームの、後半中ごろ過ぎ、最も疲れを感じる時間に、再び攻めへの意欲をかきたてるアルゼンチン代表と、それを相手に気力を奮い立たせる日本代表——そのプライドをかけた戦いに、記者席の私たちも引き込まれていった。
◆ただし、同じように疲れで動きがスローになる中で、日本側と比べてアルゼンチンのミスの少ないこと、選手間の距離、間隔のバランスのよいこと——。

【アルゼンチンの選手の質の高さ】

◆ 昨年のヨーロッパのビッグファイブ(イタリア、スペイン、イングランド、ドイツ、フランスの5ヵ国)のトップリーグのロスター(選手登録)を見ると、アルゼンチン人は83人でブラジル(70人)よりも多い。スペインなどでは言葉の点で有利であることもあるが、やはりこの数字はアルゼンチン育ちのプレーヤーの質の高さを示すものだろう。
◆それは彼らが、選手としての基礎となるボールテクニック——ボールを止める、ドリブルする、キックするといった技術が高く、また少年期からの遊びと訓練で培われた、ボールの奪い合いに強いこと——といった個人的資質に加え、チームワークに対する理解度が若いうちに進んでいるからだといわれている。

◆日本は1930年代から、チームワークを高めることでアジアで頭角をあらわし、プロ化による選手のレベルアップで世界のサッカー界でも最も進化の速い国の1つに挙げられている。
◆今年のアジアカップ優勝は、各国の台頭の中で、中田英寿や小野伸二、稲本潤一たちが不在でもアジアの王座につくという実績を残し、日本代表全員のレベルの高さを示したといえる。しかし、それぞれの試合がきわめて厳しいものであったことは、力の差が僅かであったことを示している。

◆対戦したアルゼンチン代表は、決して代表の1軍を約束されているメンバーではないが、日本代表との間に技術の面で差のあることを見せた。
◆アジア勢の急追を受け、個人力では一目おく相手も出始めている今、日本代表はもちろん、代表選手を送り出すJリーグでも、アルゼンチンとの個人差を埋める努力を重ねなくてはなるまい。

◆ アテネ・オリンピックでも、日本が勝てなかったパラグアイとイタリアを破ってアルゼンチンが優勝した。人口3千万人の国に、キリンチャレンジカップのイレブンクラスの選手が何十人といるという。1億2千万人の人口を持つ日本で、メジャースポーツを目指すわれらがサッカーがそれに追いつけなければ、世界のトップを目指すことはできない。

◆個人力アップへいま一度目を向けること——多くの指導者がこの試合のビデオを見直してそう考えてくれれば、8月11日、あの湿度90%の辛い試合も、将来へ向けた大きな布石となるハズだ。

【2004年度の日本代表】

日本代表 (監督:ジーコ)
◇キリンカップサッカー2004
 7月9日 日本 3−1 スロバキア  (広島)
 7月12日 日本 1−0 セルビア・モンテネグロ  (横浜)

◇アジアカップ
 グループリーグ 7月20日 日本 1−0 オマーン  (重慶)
         7月24日 日本 4−1 タイ  (重慶)
         7月28日 日本 0−0 イラン  (重慶)
 2勝1分、Bグループ首位で準々決勝へ
 準々決勝 7月31日 日本 1−1(PK4−3) ヨルダン  (重慶)
 準決勝  8月3日 日本 4−3 バーレーン  (済南)
 決勝   8月7日 日本 3−1 中国  (北京)

◇キリンチャレンジカップ2004
 8月18日 日本 1−2 アルゼンチン  (静岡)

オリンピック代表 (監督:山本昌邦)
◇キリンチャレンジカップ2004
 7月25日 日本 0−1 オーストラリア五輪代表  (長居)
 7月30日 日本 4−0 ベネズエラ  (国立)

◇アテネ・オリンピック
 8月12日 日本 3−4 パラグアイ  (テッサロニキ)
 8月15日 日本 2−3 イタリア  (ボロス)
 8月18日 日本 1−3 ガーナ  (ボロス)

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