9月15日(水) ロクさんのお嬢さんからの電話
◆東京の井上真由美さんから電話を頂く。ロクさんのニックネームで知られていた故・高橋英辰(たかはし・ひでとき)さんのお嬢さんで、私が月刊グランに連載中の「このくに と サッカー」にロクさんの話を書き、その掲載誌をお送りしたことへのお礼だった。
◆ 「このくに とサッカー」は同誌の木本恵也編集長(元・中日新聞編集局次長)の「司馬遼太郎さんの“このくにのかたち”のようなものを書けないか」という要望から、日本のサッカーがいまの“かたち”になるまでに、そのときどきに影響を与えた人を紹介してゆくことにしたもの。
◆2000年4月号(No.73)がスタートで、竹腰重丸(たけのこし・しげまる)さんをはじめ、先達やサッカー仲間について記してきた。2004年の10月号(No.127)がセルジオ越後の(下)。すでに54回だが、ときには1人で上・中・下、あるいは上・下になることもあり、人数は必ずしも多くはない。それほど“売れ筋”でもないハズの連載をつづけさせてくれる度量には感心するが、この連載からヒントを得てNHKが「ベルリン・オリンピックの奇跡の逆転」その時歴史が動いた——という番組を作ってくれたこともあり、やはり活字にしてもらっていてよかったと感謝している。
【秋田商業高校と内山先生】
◆ 真由美さんは夫君ともども音楽家で、彼女はもともと秋田商業高校のサッカー部長であった内山真(うちやま・まこと)先生の息女。ロクさんと内山先生のつき合いから、彼女は幼いころから高橋夫妻の養女となったのだが、その内山先生が89歳の今もお元気ということで、まずはなにより——。
◆先生は秋田商業高校にサッカー部ができたときに部長となり、昭和33年、全国高校選手権大会の優勝チームを育てた。
◆剣道の高段者で東北でも知られていた人が、全く、経験のないサッカーに取り組み、それまで不毛に近い(岩手から八重樫茂生という日本代表が出ていた)奥羽の地に優勝旗を持って帰ったのだった。
◆大会中、西宮の合宿所を訪れたとき、玄関にいち早く現れたのは旅館の人でなくサッカー部のマネージャー、先生と対話中にお茶を持ってくるのも礼儀正しい部員だった。
◆産経新聞のスポーツ欄に「不毛の東北に咲いた・秋田のサッカー」という記事を書き、チームのひたむきなプレーと、ゆきとどいた部員のしつけを紹介したら、先生から便りを頂戴し、文面に「賀川さんの記事に校長が喜んで、朝礼のときに全校生徒の前で読みました」とあった。
◆東京オリンピック(1964年=昭和39年)の6年前の話である。
◆ だいぶ年月がたって、私がサンケイスポーツの編集局長のときに、共同通信社との会合があり、そのときに「私の名前を覚えていらっしゃるでしょうか」と名刺を出した紳士がいた。経済部長・石郷岡久雄とあった。このときのチームのCF。そのころ私は大会の優秀選手選考委員でもあったから、左ウイングの平沢敬作(のちに日立)とともに忘れるハズのない名だった。
◆秋田へ出かけ、お元気な内山先生にお目にかかりたい——。
(右端)高橋ロクさんとともに筆者(左)
中央はウベゼーラー(元・ドイツ代表)
86年ワールドカップのときに写す
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