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文部科学大臣賞を受けたフィギュアの平松純子さんと私

2003/04/14(月)

4月12日、13日にちょっとした集まりがあった。ひとつはサッカーではなくフィギュアスケートの平松純子さんの「文部科学大臣体育功労賞受賞 感謝の会」(12日13時 神戸ポートピアホテル)。    

古いスポーツ好き、とくに関西人なら旧姓の上野純子といえば、思い出される方も多いハズ。1956年(昭和31年)14歳で日本チャンピオンになり、以来 1959年まで4連勝。60年、64年の第8回(スコーバレー)、第9回(インスブルック)の2度の冬季オリンピック日本代表。60年、63年世界選手権日本代表、62年ユニバーシアード日本代表(優勝)といった輝かし選手キャリアのあと、1965年(昭和40年)現役選手を引退した。

◆フイギュアスケートは女子体操などと同様に早い年齢から競技生活にはいるので、現役を辞めたときはまだ関西学院大学の学生だった。   大学を卒業した彼女は、1967年から日本スケート連盟のフィギュア委員、やがて審判となり、1971年には29歳でISU(国際スケート連盟)のジャッジ員となった。    

最近はNHKのテレビでもフィギュアの大きな競技会は必ずといってよいほど放映され、そのつど、審判の得点のアナウンスとそれに反応するスケーターやコーチの表情がクローズアップされるが、その国際舞台で30年以上の経験を重ね平松さんは、いまやジャッジより一段上のレフェリーで、ISUのフィギュア委員会委員でもある。と同時にその国際的な視野の広さと、スケートへの献身、神戸や兵庫県でのスケートクラブの育成や後輩の指導といった地道な活動、スポーツ全体への理解の深さなどで、関西のスポーツ人仲間から尊敬され、愛されている。      

◆文部科学大臣賞というのは、どれほどの値打ちなのか。    

根っからの市井の徒で"野人"でもある私には判断はつきかねるが、私たちがつくった「日本初の法人格市民スポーツクラブ」神戸FCも、1977年11月に受賞しているー。その賞を頂くには、各スポーツ団体や地域団体からの推薦が必要で、それが個人の名で推されるというのは、この人がまずこの地域で愛されている証(あかし)だろうと思う。      

◆兵庫県スケート連盟や関西学院のスケート部のOB役員たちが世話人となったこのパーティーは、いわば内輪の集まりで、和気あいあいのまことに楽しい集 (つど)いだった。私が招待されたのは、スポーツ記者として彼女の日本選手権の優勝から引退までの10年の現役生活を見つづけたこともあっただろうし、選手生活を退き、平松博氏と結婚し、2人の男の子を育てあげながら、ものすごい量のフィギュア界での活動を友人として眺めつづけてきたこともあったろう。     

【フィギュアの個性とサッカーの天才たち】    

◆パーティーで司会者が私を紹介するのに彼女が「選手として、数多くの啓示を受けた人」という言い方をしたが、とんでもない、啓発されたのはむしろこちらで、彼女や彼女と同年齢の1942年1月生まれの佐藤信夫(現・プロコーチ)やいまその佐藤夫人となった旧姓大川久美子、そしてタレント石田あゆみの姉の石田治子(はるこ)といった平松夫人より2、3歳年少の女子たちが東京の福原美和とともに、日本のフィギュアの復興期から第一次黄金期へ向かって進んでゆく時期に、スポーツジャーナリストとしていあわせたことはまことに幸いだったと思っている。    

サッカーのようなチームゲームとは別の個人種目、そのコーチとのマンツーマンの練習、両親を含めて、家族のバックアップ、そういうものを眺めながら、純子ちゃん、久美ちゃん、治子ちゃん、美和ちゃん、信夫クンなどと呼んでいた少女や少年たちが、成長し、国際舞台へ乗り出してゆく。そして先入観が大きく左右する審判の得点に何度も失望しつつ、日本のフィギュア界がじりじりとレベルアップしていった時期につき合ったのは、まことに得難い経験だった。平松夫人と同世代や杉山隆一や釜本邦茂たちの成長をにらみながら東京オリンピックに向かって走っていたサッカー界のなかにいながら、全く異なった競技と選手の進化を見たことを、いま懐かしく思い起こす。    

そしてまた、彼女たちの努力を見つづけながら、当時の一段上の世界のトップのスケーター、テンレイ・オルブライトやキャロル・ハイスといったオリンピック・チャンピオンたちに、それぞれの個性というものを見ることができたのは、のちにサッカーでもベッケンバウアーやヨハン・クライフやマラドーナ、そしていまのジダンやフィーゴ達にいたるこの道のトップ・プレーヤーたちを理解するのに大きな助けとなったのだった。    

フィギュアからサッカーへ移れば話は長くなるのでもとへ戻してー    

パーティーでは平松夫人へ若い仲間たちの傾倒ぶりに改めて彼女の年輪(失礼)も思った。    

戦前からのスケーターで、戦後審判として活動した彼女の母、上野衣子さんは私より5歳年長、その衣子さんが自らオリンピック(1940年の幻の大会)にかけたユメを娘に託し、その娘が自分のあとをついで同じ審判という立場からいまISUの重要なメンバーとなった ーその衣さんの、相変らずの元気で美しい姿にもお目にかかれた。    

いっしょに寒いリンクサイドの記者席で純子ちゃんのスケーティングを見てきた大谷四郎さん、光谷俊夫クンら早く去ったスポーツ記者たちに「あの少女が JOC(日本オリンピック委員会)の理事にもなったヨ。関西人で東京へ行っても、物を言える人が、それも女性で、出てくれたヨ」と、報告することにしよう。

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