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2003年4月

幸運の決勝点はゴールに向かう姿勢から

2003/04/23(水)

 4月16日 (ソウル・ワールドカップスタジアム)
 日本 1(0-0 1-0)0 韓国

◆韓国代表も日本代表もヨーロッパ組は不在だが、韓国には若い顔が多く、日韓戦、それもホームでの精神的重圧は彼らの方が大きいように見えた。もちろん、そうした相手の状態とは別に、あの大歓声のアウェーで、冷静に、しかも最後まで闘志が衰えることなく戦った日本代表のイレブンに敬意を表したい。

◆日本は、前半にFWで起用された仙台の山下芳輝が常に相手DFのウラへ、そしてクロスにはニアへはいろうとするのがよかった。フィニッシュまで持ってゆけるかはともかく、こういう「図々しい」FWが増えるのは、まことに結構なことだ。

◆シュートは日本が前半4、後半4、韓国が8本ずつで2倍だったが、距離や流れからみて決定的だったのは、前半の日本・小笠原のフリーシュート、韓国のやはり前半、李天秀の反転フリーシュート。それぞれ相手をヒヤリとさせたハズだ。

小笠原のは左からのクロスを相手DFがヘッドし、そのボールを右に開いていた中山がとってすぐに中央右よりの小笠原へわたした。小笠原はこれを彼らしく右足でダイレクトでひっかけ気味に浮かせてゴール左上を狙ったが、曲がった球道は左ポスト外へそれた。中山のパス、小笠原のダイレクトシュートといい、いかにも日本的なタイミングと技巧だったが・・・

【李天秀の反転とシュート】

小柄な李天秀が日本側を驚かせたのは23分ごろ。中央のFKを左へまわし、左から中央のノッポの李東国にあて、胸で落としたボールを、すぐ近くに走りこんでいた李天秀がゴールを背にした形でボールを浮かせ反転して、エリア内に侵入した。ゴール正面、エリアぎりぎりでのこのプレーは、前に出た服部のウラをかいた格好になり、李天秀はGK楢橋と1対1となった。しかし、この右足のシュートは左ポストにあたって外へいってしまった。

李が浮かせて反転したところは、2002ワールドカップのポルトガル戦で、朴智星が右ポスト前で、浮きダマのフェイントでDFをかわしてゴールを決めたのと、少し形は違うが、韓国の選手の空中にあるボールに対する巧さと落ち着きを示すもの。

残念ながら、李の方は抜け出してからシュートまでに余裕があったためにかえって決められなかった。

◆日本に対する韓国の得意芸 ー 怒涛の攻撃 ー

走りまわってクロスのセカンドボールを拾い、第2波、第3波と打ち寄せる攻めは、後半の方が前半より少し多かったが、日本側は山下に代えて奥大介を投入し、三都主をFWにあげたから中盤からのパスの出どころは前半より増え、変化もあった。

Tphoto030416nagaiceleb 決勝ゴールは、その奥が左サイドの自陣から送ったロングボールを永井雄一郎に渡ったところから始まり、彼がエリア左角で中へドリブルし、左へ切り返して一人DFをはずしたとき、ボールが大きく足元から離れてしまう。それをDFの曹秉局(チョ・ビョング)が蹴った ーそのボールに永井の伸ばした右足があたり、ボールが高く上がってゴールキーパー李雲在の上をこえ、ゆっくりゴール右すみにすいこまれた。

左から中へ切れこんで、エリア左角あたりから右のシュートを狙うのは永井の得意の型のようだが、それにもってゆこうとして、相手にコースを抑えられ(韓国 DFの密着プレー)切り返してかわそうとして、それが必ずしも成功はしなかったが、相手のクリアに足を出す粘り強さが貴重なゴールとなった。

【大器は花開くか〜】

◆永井雄一郎は1979年2月14日生まれで、中田英や中村俊輔より1〜2歳若く、高原直泰と同世代。三菱養和クラブの出身。184cmと上背があって足が速く、ドリブルの上手な彼が1997年に浦和レッズにデビューしたとき、誰もが次世代のスターと期待したものだ。未完の大器は、どういうわけか私がいう最も大切な21〜22歳期をドイツの2部カールスルーエで過ごし、浦和にかえってきて、J2からJ1への昇格には役立ったが、ワールドカップの代表の枠に入ることもなかった。

日韓戦の直前になって、故障者が出たFWのサブとして久しぶりに代表に登録され、後半30分から中山に代わって出場して、幸運な決勝ゴールを決めたのだった。

◆タイムアップ直前、ロスタイムに記録されたこのゴールはジーコ・ジャパンにとっても、自らシュートチャンスを切り開く姿勢が決勝ゴールにつながったということで意義は大きい。

ただし今回はあくまで“姿勢”が生んだ幸運である。永井が自ら意図し自らの技術によって重要なゴールを奪いとるようになれば、4月16日の幸運のゴールは彼にも日本サッカーにも歴史的な意味を持つだろう。

(撮影:冨越正秀)

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文部科学大臣賞を受けたフィギュアの平松純子さんと私

2003/04/14(月)

4月12日、13日にちょっとした集まりがあった。ひとつはサッカーではなくフィギュアスケートの平松純子さんの「文部科学大臣体育功労賞受賞 感謝の会」(12日13時 神戸ポートピアホテル)。    

古いスポーツ好き、とくに関西人なら旧姓の上野純子といえば、思い出される方も多いハズ。1956年(昭和31年)14歳で日本チャンピオンになり、以来 1959年まで4連勝。60年、64年の第8回(スコーバレー)、第9回(インスブルック)の2度の冬季オリンピック日本代表。60年、63年世界選手権日本代表、62年ユニバーシアード日本代表(優勝)といった輝かし選手キャリアのあと、1965年(昭和40年)現役選手を引退した。

◆フイギュアスケートは女子体操などと同様に早い年齢から競技生活にはいるので、現役を辞めたときはまだ関西学院大学の学生だった。   大学を卒業した彼女は、1967年から日本スケート連盟のフィギュア委員、やがて審判となり、1971年には29歳でISU(国際スケート連盟)のジャッジ員となった。    

最近はNHKのテレビでもフィギュアの大きな競技会は必ずといってよいほど放映され、そのつど、審判の得点のアナウンスとそれに反応するスケーターやコーチの表情がクローズアップされるが、その国際舞台で30年以上の経験を重ね平松さんは、いまやジャッジより一段上のレフェリーで、ISUのフィギュア委員会委員でもある。と同時にその国際的な視野の広さと、スケートへの献身、神戸や兵庫県でのスケートクラブの育成や後輩の指導といった地道な活動、スポーツ全体への理解の深さなどで、関西のスポーツ人仲間から尊敬され、愛されている。      

◆文部科学大臣賞というのは、どれほどの値打ちなのか。    

根っからの市井の徒で"野人"でもある私には判断はつきかねるが、私たちがつくった「日本初の法人格市民スポーツクラブ」神戸FCも、1977年11月に受賞しているー。その賞を頂くには、各スポーツ団体や地域団体からの推薦が必要で、それが個人の名で推されるというのは、この人がまずこの地域で愛されている証(あかし)だろうと思う。      

◆兵庫県スケート連盟や関西学院のスケート部のOB役員たちが世話人となったこのパーティーは、いわば内輪の集まりで、和気あいあいのまことに楽しい集 (つど)いだった。私が招待されたのは、スポーツ記者として彼女の日本選手権の優勝から引退までの10年の現役生活を見つづけたこともあっただろうし、選手生活を退き、平松博氏と結婚し、2人の男の子を育てあげながら、ものすごい量のフィギュア界での活動を友人として眺めつづけてきたこともあったろう。     

【フィギュアの個性とサッカーの天才たち】    

◆パーティーで司会者が私を紹介するのに彼女が「選手として、数多くの啓示を受けた人」という言い方をしたが、とんでもない、啓発されたのはむしろこちらで、彼女や彼女と同年齢の1942年1月生まれの佐藤信夫(現・プロコーチ)やいまその佐藤夫人となった旧姓大川久美子、そしてタレント石田あゆみの姉の石田治子(はるこ)といった平松夫人より2、3歳年少の女子たちが東京の福原美和とともに、日本のフィギュアの復興期から第一次黄金期へ向かって進んでゆく時期に、スポーツジャーナリストとしていあわせたことはまことに幸いだったと思っている。    

サッカーのようなチームゲームとは別の個人種目、そのコーチとのマンツーマンの練習、両親を含めて、家族のバックアップ、そういうものを眺めながら、純子ちゃん、久美ちゃん、治子ちゃん、美和ちゃん、信夫クンなどと呼んでいた少女や少年たちが、成長し、国際舞台へ乗り出してゆく。そして先入観が大きく左右する審判の得点に何度も失望しつつ、日本のフィギュア界がじりじりとレベルアップしていった時期につき合ったのは、まことに得難い経験だった。平松夫人と同世代や杉山隆一や釜本邦茂たちの成長をにらみながら東京オリンピックに向かって走っていたサッカー界のなかにいながら、全く異なった競技と選手の進化を見たことを、いま懐かしく思い起こす。    

そしてまた、彼女たちの努力を見つづけながら、当時の一段上の世界のトップのスケーター、テンレイ・オルブライトやキャロル・ハイスといったオリンピック・チャンピオンたちに、それぞれの個性というものを見ることができたのは、のちにサッカーでもベッケンバウアーやヨハン・クライフやマラドーナ、そしていまのジダンやフィーゴ達にいたるこの道のトップ・プレーヤーたちを理解するのに大きな助けとなったのだった。    

フィギュアからサッカーへ移れば話は長くなるのでもとへ戻してー    

パーティーでは平松夫人へ若い仲間たちの傾倒ぶりに改めて彼女の年輪(失礼)も思った。    

戦前からのスケーターで、戦後審判として活動した彼女の母、上野衣子さんは私より5歳年長、その衣子さんが自らオリンピック(1940年の幻の大会)にかけたユメを娘に託し、その娘が自分のあとをついで同じ審判という立場からいまISUの重要なメンバーとなった ーその衣さんの、相変らずの元気で美しい姿にもお目にかかれた。    

いっしょに寒いリンクサイドの記者席で純子ちゃんのスケーティングを見てきた大谷四郎さん、光谷俊夫クンら早く去ったスポーツ記者たちに「あの少女が JOC(日本オリンピック委員会)の理事にもなったヨ。関西人で東京へ行っても、物を言える人が、それも女性で、出てくれたヨ」と、報告することにしよう。

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高い技術で攻め続けて少得点、守備のミスで失点

2003/04/05(土)

 4月1日
 U-22 日本 1(1-0 0-1)1 U-22 コスタリカ

Tphoto030401abegoal1 ◆ コスタリカの5人で作ったカベの右を迂回して、ゴール右ポストぎりぎりに飛びこんだ阿部勇樹の26メートルFK ー ボールの速さ、曲がり具合、そして、その自分の能力を信じて狙った本人の意図、こういうビューティフル・ゴールを実際に目のあたりにし、それをまたビデオのスローで確認できる楽しさを改めて噛みしめた。

◆豊田スタジアムのスタンドの記者席で、隣の田村修一君が「この世代もいいですネ」という。それに答えながら、プロフェッショナルのJリーグがスタートして10年の年月を経て、当時10〜11歳だった少年たちが、今U-22日本代表として、高いテクニックや機敏な動きを身に付けているのを感じた。

1981年〜82年生まれの多いこのチームは、1979〜80年生まれの小野伸二、高原直泰、小笠原満男、中田浩二、稲本潤一らのグループと比較されるが、小野は格別としても、ボールテクニックでは先輩たちにひけをとらず、むしろ、両足を使える選手の多いこと、ドリブル突破のできるものが多いという点では進化しているといってよい。

ただし、敏捷でドリブルができるものをピックアップすると、平均して身長の低いものが増えるのも日本の現状なのかー。

◆高い技術を備え、動きの速さも持てば、どうしても日本式の速いテンポの攻めに終始してしまうという、これもまた日本流の試合になったのも、当然といってよい。これは日本サッカーの長い歴史のなかに「緩と急」を備えたプレーヤーが少なかったせいでもある。

◆パスをつなぎ、ときにドリブル突破を交えて、左、右からゴール前にクロスを送る攻めは一見みごとだが、コスタリカの「厚い守り」からゴールを奪えずに苦労したのは、テンポが「急」ばかりのためである。また、小柄で速い大久保嘉人と、高くてヘディングの強い中山悟志の2トップへ供給されるラストボールのコースやタイミングが必ずしもピッタリではなかったのも、どこかで「間(ま)」をとるという感覚に乏しかったからともいえる。

◆そういう中で生まれた阿部のFKからのゴールは貴重だが、私はこのFKとともに、その直前の左サイドの根本と松井の協力による崩しとクロスの攻めが非常によかったと思った。

根本がコーナー近くでキープし、うしろへ戻って松井にバックパスすると、松井は大きいトラッピングで相手DFを引き離し、左からライナー気味のクロスを送った。ボールは、ゴール正面左よりの大久保へ飛んだ。大久保のジャンプヘッドはかすった程度でゴールにならなかったが、高い位置での根本のゆっくりしたキープにつづく松井の速い飛び出しで、厚く見えていたコスタリカの守りが手薄になった。

こういうゴールライン近くにまで食い込み、そこからクロスでヘディングを狙わせるか、グラウンダーでGKとDFの間をとおす、あるいは斜め後方へ送ってシュートさせる、あるいはドリブルして自らシュートへ持ってゆくというように、攻めに変化をつけるようになってほしいし、またその力を持っていると思う。

◆コスタリカの手を使うファウルは目にあまるものがあったが、それを相手に、比較的冷静にプレーを続けた点はすばらしく、まことに頼もしい。

◆見事な攻撃展開をして、多くのチャンスをつくりながら得点は僅かで、守りでは単純なミスからゴールを失う ー 兄貴分の代表チームと同じ傾向がこのU- 22にもあるようで、今回もまたDFのパスミスを拾われ、それのカバーリングも的確でなく、パブロ・ブレネスにまるでフリーシュートのように決められた。

前半の始めに、CDF青木のボレーでのバックパスが観客をヒヤリとさせた場面もあった。

失点に直接つながった角田の青木へのパスは

 1)角田のサイドキックの角度 — キックの失敗
 2)相手ボールになってからの青木の詰め方
 3)GK林の位置

といった各ポイントについて反省することになるだろう。

 

◆同時にまた石川や根本のクロスの精度、大久保の位置どりやシュート、パスの精度などについても、単に反省だけでなく、実際に反復練習によって、技術を伸ばさなくてはならない。

これはすべての選手にいえること。

U-22というこの年齢層の選手にとって、ここ2年間の技術の向上、とくにキック能力のアップ(精度も距離も)がフィジカルの充実とともに重要だからである。

(撮影:冨越正秀)

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