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2003年3月

不満な引き分け、対ウルグアイ

2003/03/29(土)

3月28日  
日本 2(1-2 1-0)2 ウルグアイ      

◆1-2とリードされていた後半12分に稲本のシュートで同点としたそのシュートも、シュートにいたるパスの組み立ても見事だったから、見ているサッカー好きには楽しい試合ではあったが、さて、冷静に考えてみるとウルグアイを相手にホームで引き分けたのでは喜んでばかりはいられない。    

◆試合をふりかえるとー    

日本がキープしパスをまわし攻め込むのを、ウルグアイはファウルをふくめての激しいタックルやDFのうまいポジショニングで防ぎつつ、ときにカウンターに出る。こういう形が20分つづいたあと、21分にウルグアイが先制ゴールを奪う。レコバが左サイドでキープしてリマに渡し、リマが中央へいいクロスを送った。それに9番のフォルランがDF森岡の前、ニアサイドにはいってヘディングを決めた。左足の名手レコバが何気ない風にリマに渡したのはさすがだが、そのリマがまた左足で蹴ったクロスもみごとだった。そしてマンチェスター・ユナイテッドにいるというだけあって、ニアに走りこみジャンプヘッドしたフォルランもまた、的確にボールの方向をかえて、ニアサイドを破った。(ボールを地面に叩きつけるのではなく、GKのとりにくい、高いライナーでのヘディングシュートだった)    

◆フリーでヘディングさせる形となった日本の守備にも問題はあるのだが、ヘディングシュートをきちんと叩きこめるところが、ちょっと羨ましい。    

◆日本はすぐこのあと、鈴木がエリア内でソサに手で引き倒されてPKをもらい、中村俊輔が左足で決めた。鈴木にわたるまでのボールの動かし方はみごとだったし、相手GKにコースを読まれてはいたが、読まれてもGKの取れない高さと速さのボールを蹴った俊輔もまた冷静な技巧派だ。    

◆追いついた日本に、今度はGK川口のファンブルという信じられないミスが起きて再びリードされる。右CKをジャンプしてキャッチした川口の手からボールが下に落ち、レンボがソールで押しこんだ。    

このエラーについて、彼がイングランドで現在一軍の試合に出ていないからではないかとの声もあるが、こういう大失敗をしても、そのあと立ち直るところが川口の強さといえる。    堅い守りとカウンター攻撃がウルグアイ代表の伝統的な看板、それがアウェーで、しかも2-1とリードしたのだから、監督さんはニンマリしただろう。    

◆後半12分の日本の同点ゴールは、その堅く厚い守りをみごとに崩したひとつー。    

後半開始から中村に代わったアレックスが左タッチ沿い25メートルから中央の中田英寿に速いパスを送り、中田がキープして、右へ短いパスを送り、走りあがった稲本が右足でシュートして左下へ送りこんだ。    ボールをうけてキープし自らシュートの気配を見せつつ、短くやわらかいパスを右足アウトサイドで稲本の前へ流しこんだ中田英寿の技巧と気配が、すでに前半に3本のシュートを放っている稲本の積極性に火をつけた。    

◆同点となれば、あとは勝ち越し点を—と攻めた日本だが、アレックスはドリブルを読まれて突破はできず、右の名良橋は前半ほどにも攻め上がらなかったから、攻めの勢いは中央部に集まり、効果的な展開は少なくなってしまった。    

鈴木に代わって後半30分からはいった黒部は、中田英寿からのクロスを相手DFと競り合ってヘディングに勝ちはしたが、ゴールを奪うまでにはゆかなかった。      

◆やっぱり中田英寿    

日本の奪った2得点のラストパスはともに中田英寿であった。反則を受けPKとなった鈴木へ出たボールは、中村ー小野のあと小野がドリブルして、中田英寿に渡し、中田英寿がダイレクトで短いスルーパスを鈴木と送ったもの。2点目の稲本のシュートも前述したとおり、中田英寿がドリブルしてシュート、あるいはキックのフェイントを入れたことで、相手DFが一瞬止まる格好になったところが、稲本の前のスペースをつくるのに生きていた。     

ワールドカップの第1ラウンドのように互いに攻め合うのでなく、この日のウルグアイのように引いて守るチーム、つまりゴール近くに人数の多い相手に対したときに決定的な仕事が出来るのは、やはり中田英寿だった。        

◆高原が鈴木とのワンツーで抜け出て、GKと1対1になって防がれたのは、高原にとっての今後の勉強材料だろう。ボールのどこを蹴ればGKの手を超えてゴールに突き刺さるかー。ああいう場面でのボールの高さについて、欧州のリーグをテレビで見ている日本のファンの目も肥えてきている。彼の進歩は、そのまま日本代表チームの得点力アップにつながる。    

多くのファンとともに、彼の成長を見て行きたい。
(撮影:富越正秀) 

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イングランドのイヤーブックと稲本たち。

2003/03/09(日)

◆3月8日のJリーグ・ナビスコ杯の1回戦、ガンバ対セレッソを取材に出かけた。

会場の万博競技場へはJR芦屋駅から東海道線の茨木駅そこからタクシーで、といういつものルートを取ったのだが、乗った快速電車は午後2時30分に新大阪駅で止まったきり動かない。しばらくして高槻で事故があったとアナウンス。そのあとで京都・大阪間の運転は全部ストップしたと伝えた。快速でひと駅の茨木を前にして、新大阪駅から地下鉄でいったん梅田にもどり、阪急電鉄で阪急茨木駅に着いたのがすでに3時30分。その上、タクシーがなかなかこない。これではスタジアムに着くころに試合は終わると、諦めることになった。

◆折角のJの開幕日を逃したのだから、本でも ー と再び梅田へ。紀伊国屋へ寄ってカウンターで調べてもらったら「ROTHMANS FOOTBALL YEARBOOK 2002-2003」が入荷していた。インターネットで申し込めば、昨年秋には入手できているハズなのだが、どうもこういうことは要領が悪く、相変わらず書店へ出かけて、本の姿を見て買うという楽しみから抜け切れない。

◆このロスマンのイヤーブック(年鑑)は1970年発行。1970-71年版が最初で、今回が33冊目(33rd year)になる。

イングランドのリーグ加盟の92クラブの紹介、昨シーズンの各リーグ、FAカップ、リーグカップなどの成績から欧州チャンピオンズリーグ、2002年ワールドカップといった国外のビッグイベントや、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドなどの記録がはいっていて、イングランドと世界のサッカーを一望できる。

年々、記録が多くなるため、古い記録は90年代以後から簡略されているのは当然だが、サッカーの本家の年鑑として、まことによくまとまっている。

昨年から、ENGLISH LEAGUE PLAYERS DIRECTORY、つまりリーグの選手の個人記録が掲載されるようになったのがうれしい。クラブ別になっていて「アーセナル」のところで稲本潤一 (INAMOTO Junichi)が、ガンバ大阪での各年の記録とアーセナルの2001-2002、0試合0得点の数字が記載されている。彼の名の欄に自由契約(Free transfer)の印がついているのも親切。アルファベット順なのでHENRY, Thierry(アンリ・ティエリ)の名が彼の上にある。ポーツマスの川口能活も同じように日本での7シーズンと、2001-2002の出場試合11が記録されている。

この権威あるイングランドのイヤーブックに日本人プレーヤーの個人記録がJリーグでの成績とともに紹介されるのを見ると、楽しみの多い時代になったナとつくづく思う。

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拝復、Nさん。

2003/03/05(水)

※「拝啓、賀川さん」へ寄せられたメッセージへのお返事です。

【リオのマラカナン・スタジアムの記事について】

◆リオのマラカナン・スタジアムについて、1992年7月19日の事故についての記事で、適切でない表現があるとのご指摘、ありがとうございます。
一部を差し替えました。

(ここからはNさんだけでなく皆さんへ)

このマラカナン・スタジアムの記事は私が『サッカーダイジェスト』に1988年5月号から1994年まで「FOOTBALL AROUND THE WORLD 蹴球 その、くに、ひと、あゆみ」というタイトルで連載したうちの1993年3月18日号に掲載したブラジル[7]の1部です。(ブラジルは [1]〜[10]まで)当時のダイジェスト誌の六川亨編集長の激励のおかげで6年間に40か国近くについて、年表とメモをつけて書きつらねたものでした。現在、Kagawa Soccer Libraryにも収録されています。掲載時から現在に至るそれらの国々について、いずれ補足する予定ですが、まずは時間のある方は一度、読んでみて下さい。

【愛知県、刈谷高校について】

◆愛知県の刈谷高校についてのお問合せでした。

愛知県立・刈谷高校は大正8年(1919年)の開校で、初代の羽生隆校長は「東洋のイートン・スクール」をめざすという教育方針を掲げ、スポーツもアメリカ生まれの野球でなくフットボール(サッカー)を採用した。

野球の盛んな名古屋・東海地区のことだからずいぶん異論もあったが、学校の教科課程のひとつとして全校生徒ができること、スポーツで質実剛健な気風を生みたいとの考えが受け入れられ、ランニング(陸上競技)とサッカーが校技となった(刈谷高校サッカー部70年史)ーとある。

◆創立70周年を機会に1988年(昭和63年)8月、英国のパブリック・スクールの名門イートン(Eton)校のサッカー部16人(柔道部9人も)を招待して交流試合を行なった。8月15日に来日したイートンのサッカーチームは刈谷でホームステイして刈谷高校や近隣の高校チームと合計5試合をしたのち、 27日には神戸で神戸高校と試合した。

私は刈谷での試合は見ていないが、神戸高校との試合は見ることができ、その夜の河本春男・神戸市協会会長主催のレセプションにも出席した。試合態度もしっかりしたものだが、このレセプションでの小柄なキャプテンのスピーチが堂々していて、しかも気配りのゆきとどいているのに感心したことを覚えている。いま彼の名を思い出せないが、私との立話のときに16才の彼は「父もイートンでサッカーをしていた。父はキャプテンでなかったが、私はキャプテンです」というところに、イングランドでのキャプテンという言葉の意味と、彼の振る舞いにキャプテンシーという意味や、そうした教育の一端を見た感じがした。

ロンドンから離れたところに両親はいる。(友人の話ではお城らしい)私はロンドンにフラット(アパートの一区分、日本でいうマンション)を持っているので、ミスターカガワもロンドンにおいでの節はぜひお立ち寄り下さいと言っていた。

こういうイートン校と交流を持つところに刈谷高校の伝統の重みがあると思う。

◆刈谷高校については『月刊グラン』(名古屋グランパス、サポーターズマガジン)の2001年11月号「このくにとサッカー」河本春男(上)のところにも短く触れています。この連載は出版元の中日新聞開発局・月刊グラン、本木恵也編集長の案で、日本のサッカーが今日の姿になるまでの歴史のそのときどきに、業績があり、またのちにまで影響を及ぼした「人」を紹介してゆくもので、2000年4月第73号から現在まで続いています。ちなみに一番新しい2003年3月号No108も刈谷高校出身(ただしサッカー部ではなかった)の鈴木良韶和尚(元祖サポーター)です。

◆Nさんの叔父さんが国体に優勝したころの部員ということ。

刈谷は昭和29、30年に連続優勝をとげている。私は国体は取材していないが、西宮球技場で開催されていた正月の高校選手権は欠かさず見ている。

29年国体優勝チームは30年1月の選手権決勝に進んで浦和高校に敗れた。刈谷には熊田、服部といったいいFWがいたが、浦和には超高校級のストライカー志賀広がいて、彼の突破力とシュートに敗れた。スコアは5−2、次の年の高校選手権は地域予選で敗れた。刈谷を押さえて選手権へ進出した藤枝東高には記念すべき時だった。

◆質問のなかに刈谷のOBが静岡にサッカーを伝えたという話があったが、ある時期の静岡勢が先進の刈谷を目標にしたことはあるハズ。ただし「伝えた」というのを初期の段階でフットボールを静岡に伝えたという意味なら、ちょっと年代的にむずかしい話となる。

静岡師範が大正10年の第3回関東大会に出場(1回戦敗退)した記録があるが、旧制刈谷中学の記録では大正10年は秋に校内大会を行なった程度で、対外試合は大正11年の名古屋蹴球団主催の全国中学校大会が初めてとなっている。

◆刈谷高校のOBには私や兄・太郎をサッカーに引き込んだ前述の神戸一中のサッカー部長・河本春男先生(ユーハイムの元会長)や長く親しくしてもらった高橋英辰さんをはじめ多くの知人がいる。『赤だすきの歩み』刈谷高校サッカー部70年史に兄・太郎も寄稿している。そんなことで、つい長話になった。そういえば現在のグランパスの社長の加藤東洋さんも刈谷高校の卒業生だった。

(ロクさんこと高橋英辰さんについては、別の機会に)

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拝復、「最近のニュースに思うこと」です。

2003/03/04(火)

※「拝啓、賀川さん」へ寄せられたメッセージへのお返事です。

Sさん、「最近のニュースで思うこと」のメール拝見しました。Sさんのご意見に”同感”という方も多いと思います。

◆ユーロッパで活躍している日本選手の報道があまりにも日本人選手中心で、ゲーム全体を無視しているように感じる。特に馴染みのある地上波TVにその傾向が強く、これはサッカーを志す子供や興味を持ちはじめた新しいファンなどにはいいとは思えない。分析も加えたダイジェストやプレビュー番組が地上波などの影響力の強いメディアで放送してくれることを望んでいるー。これらに対して賀川はどう思うか、というのがメールの主旨でした。

Sさんのように不満を持たれる方も多いのは当然ですが、この傾向は日本のマスメディアとしてごく普通のことです。

◆こういう例があります。

いま文芸春秋社から出している『ナンバー』という立派なスポーツ雑誌があります。昨今ではサッカーに関するいい記事や写真が多く、好評のようで、スポーツ出版界でも古くからのサッカー専門誌は別にしてサッカーを取り上げて成功した例といわれているそうです。

ただし、この雑誌でも創刊以来長い間はサッカーには見向きもしませんでした。Jリーグの誕生する前のこの雑誌のラグビーとサッカーの記事の扱いは相当以上の格差がありました。すでに競技人口ではサッカーの方がはるかに多く、少年育成や登録制度の改革など、将来に向かって手を打っていたのですが、ワールドカップやオリンピックのアジア予選を突破できなかったからです。

ラグビーは野球と同じように、正規国際試合、つまりタイトルマッチがなかったので、国際比較は必要なく早大、明大、慶大という人気のある学校チームの対戦で国立競技場がいっぱいになるということ(編集者のなかにラグビー好きもいたようです)などから、野球のシーズンが終わると、ラグビー記事が花盛りとなったものです。

それがいまは全く違っています。サッカーを特集的に扱うのが一番の売れ筋ということです。

このことで私は『ナンバー』という雑誌を悪く言っているのではありません。どれほど潜在購買力がサッカーにあったとしても、華やかな話題がなければ売る自信は生まれず、従って、層は薄くても東京で大学生に人気のあるラグビーを取り上げるのは編集者として当然で、Jリーグのスタート以降、サッカーが華やかさを増した途端に、ガラリと重点を移した変わり身は素晴らしいと思います。皮肉ではなく、これがジャーナリズムなのです。

◆メディア、あるいはジャーナリズムというのは、まぁ、こういうものです。(だからこそ、サッカー関係者は、長い期間をかけて努力し、メディアが取り上げてくれるような存在にもってきたのです)

◆「馴染みある地上波TV」は『ナンバー』と比べてもはるかに巨大なマスメディアです。だから「売れるもの」「人が見るもの」の放送を優先する、つまりスター優先になるのは当然です。ベッカム報道のエスカレートもそういう流れのことです。今年は大リーグでも、ゴジラ対大魔神などという話題が大きくなるでしょう。

問題は、中田英寿や中村俊輔にむらがりながら、「いいパスを出した」「シュートした」だけでなく、ヨーロッパのサッカーをしっかり見て、記者がどれだけ勉強し、工夫して、欧州の現状や社会とともに歩んだ歴史、あるいはクラブの運営や選手育成にまで、どのように目を配るかーです。

◆テレビ放送は残念ながら一日は24時間。そのうち人が見るのは、せいぜい10時間〜14時間という制約があります。NHKは地上波も衛生も数多くの波を持っていて、いい企画番組を作っているし、また毎週の「FUTBOLL MUNDIAL 世界のサッカー」などは、とても面白いと思います。

◆メディアのもうひとつの傾向は飽きっぽいことと、常に自問自答することです。自分たちがやっていることも、これでいいかといずれは考えるようになります。そのときにワールドカップを経験し、欧州へ飛び出していった現役の記者や放送関係者たちが、どう考えるか ー 私はむしろそれを楽しみにしています。

質問のお答えになったでしょうか。

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ゼロックス・スーパーカップ

2003/03/02(日)

ゼロックス・スーパーカップ
3月1日 (国立競技場)
ジュビロ磐田 3(0-0、3-0)0 京都パープルサンガ

【またまた客は濡れたまま】

シーズンの開幕を飾るのにふさわしい、見て楽しい試合だった。ーただし、これはテレビ観戦した私の話。雨が降り、開始時の気温が3.3度というなかで観戦、応援してくださったサポーターやファンの方はたいへんだったろう。Jリーグの鈴木チェアマンの「こんな日に来てくれる人が本当のファンだな」との談話が新聞に出ていたが、さきの東アジアのトップ・クラブのマツダA3のシリーズでも雨だった。主催者もいつまでも”本当のファン”に甘えないで、国立競技場のスタンドに屋根をつけたらどうなのか、「国立霞ヶ丘陸上競技場」だからといって、今のままでいいとはいえまい。

1964年の東京オリンピックのときに作ったこの競技場が長い間、地方自治体の作るスタジアムのモデルになったことを考えれば、サッカー人もラグビー人も陸上競技の愛好者も、なにやら理由があるらしく屋根をつけることをOKしない競技場側にファンやメディアとともに、もっと強く働きかけるべきだろう。

【ジュビロにはA3の体験が生きた】

それはともかく、ジュビロのサポーターにはチームのこの日の試合ぶり、とくに後半に3ゴールを奪ったことで、寒い雨中の辛さも半減したかも知れない。とにかくおめでとう。

京都サンガにとっては、Jへ向かって仕上げてゆく時期に、すでにA3で強い相手とのタイトルマッチを3試合もして、自分たちの修正点をつかんだ磐田と戦ったのだから、負けてよいとはいえないにしても勝つほうがムリだった。後半に疲れで動きが止まってしまったのは、2ヶ月前の天皇杯決勝とは大違いだった。

ジュビロにとっては、チーム全体が彼ら本来の「まず走る」という原点にかえったのがよかった。いいチームでもプレーヤーでも、ゴールが奪えない、パスがつながらないとなると考えこんでしまう。そして考えた結果、「まず走ることだ」ということになる。これは古今東西”きまりのようなもの(もちろん技術が必要だが)ー”この日、それが最も顕著にあらわれたのは、FWのグラウだった。

【グラウの走りと粘り】

西(1980年生まれ、175センチ)よりも3歳年長のグラウは身長(176センチ)も体重もあまり違わないのに、骨太の感じのするプレーヤーで、その彼がFWとしてボールをもらう動きを大きくしただけでなく、取れないボールを執拗に追った。

前半10分ごろまで京都に勢いがあったが途中から磐田がもりかえしたのは、彼が左サイドへ出たボールを追って相手DF鈴木のミス(カカトのキックでかわそうとした)から決定的なチャンスを生んだからだった。左のゴールラインから中央へ出した彼のパスが中山と合わなかったが、このあとすぐ藤田の左サイドの動きから再びチャンスをつくった。ともに得点にはならなかったが、受け身となっていたジュビロの体勢たてなおしに役立ったと思う。

【藤田俊哉のとび出しとゴール】

磐田は62分(後半17分)に藤田のシュートで先制した。前半にあまり前へ出なかった河村が積極的に右サイドをあがるようになり、グラウからのパスでノーマークシュート(左へはずれる)までしたが、このゴールのきっかけも藤田からのパスを受けた河村がクロスを送ることから。グラウンダーのパスを中山がさわらずに流したが、そのボールは同じラインに詰めた服部にはわたらず、京都DFがとる。しかし、最先端にいたグラウがすばやくもどってDFがクリア・キックするとき右足を出すと、このボールがなんと後方から走りあがってきた藤田にわたった。しかも右足の前へころがるおあつらへ向き。ペナルティエリアで、藤田に有利な形でボールを持たれれば、まずおしまいだ。藤田は右へ出ようとして2人のDFが来ると、タイミングをはかったような切り返しで、やりすごし、左足のみごとなコントロールシュートをゴール左下へ送りこんだ。河村があがることで攻撃にからむ人数が増えたこと、グラウが相手ボールにからんだことが、藤田の決定力につながった。

◆1点を奪った磐田が勢いづき、京都の動きが落ちる。そして後半28分に2点目ー。

ハーフライン手前で、右からのパスを受けた福西が、左前へ飛び出した藤田にいいパスを送り、藤田がシュート。GKがセーブではじいたのをグラウが決めた。右側からの攻めが多かったあとでの左より藤田のとび出しを京都DFは掴めなかった。

3点目は右CK。名波の正確なキックをニアの福西が頭で後方へ、それにグラウが頭で合わせ、叩きこんだ。

グラウが高原のアトをつとめるかどうか、少なくとも磐田には、いい候補がまたあらわれたといえる。

この日のイレブンの試合ぶりは、2003年リーグもやはり楽しませてくれると期待できる。

◆京都は朴智星が去ったあとの攻撃力(サイドでのキープと突破)が落ちているが、黒部は個人的な力で磐田DFを悩ませた。松井もいることもあり、天皇杯で伸びた力はコンディションにハンディがあっても、ある時間帯は、やれたのだからエンゲルス監督は新しいシーズンも関西のファンを喜ばせてくれるだろう。

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