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拝復、ガリンシャのことです。

2003/02/10(月)

※「拝啓、賀川さん」へブラジルにおられるNさんから寄せられたメッセージへのお返事です。

【ドリブルの名手】

マノエル・フランシスコ・ドス・サントス
(Manoel Francisco dos Santos)
1933-1983年

通称ガリンシャはペレよりも7歳年長で、ニックネーム「ガリンシャ」(小さな鳥)のように捉えがたいドリブルの名手として知られています。ブラジル代表、 57試合(15得点)ワールドカップには1958、62、66年の3大会に出場、12試合、5得点を記録。優勝2回の実績で1958年には第4組のブラジルの第3戦(対ソ連)にペレと共に大会に初登場してブラジルの優勝に貢献しました。

この大会の決勝でスウェーデンに0-1とリードされたあと、ブラジルは2ゴールをあげて逆転するが、その2ゴールはいずれもガリンシャの右サイドの突破と強いグラウンダーのクロスからでした。

1962年チリ大会では、ペレがケガで戦列を離れたあとも、新人アマリウドとガリンシャの活躍でブラジルはタイトルを守った。準々決勝(対イングランド、3-1)の彼の2ゴール、準決勝対チリ(4-2)の同じく彼の2ゴールはドリブルだけでなく、さあというときに頼りになるストライカーであることを示した。62年大会をガリンシャの大会と呼ぶ人もあるほどです。1966年の1次リーグ第3組の第1戦対ブルガリア(2−0)でのFKのゴールが彼のワールドカップでの5点目で、最後のゴールとなった。

【奇形の両足】

貧困家庭に生まれポリオ(脊髄性小児麻痺)のために奇形だった彼は、幼いころ手術でよくはなったが、左足はX型、右足はO型という変わった形になってしまった。

この左右の長さの違う足と天性のスピードは、特有のドリブルになって相手のDFを困らせることになる。ボタフォゴのテストを受けたとき、カルドッソ監督を驚かせ、彼のドリブルの相手をしたニルトン・サントス(1958年、62年ブラジル代表 W杯優勝メンバー)は、そのフェイントに幻惑されてターンのときに足をくじいたというエピソードがある。

私自身はナマの彼は残念ながら見ていませんが、緩急の大きな落差、立ちどまり、相手もあわせて止まったときに、爆発的なスピードで出てゆくのが大きな特徴であり、またO型の右足で右からのクロスは得意であっただけでなく、右足でかかえこむような切り返しや、アウトサイドでのボールタッチに独特の「間」(ま)や感覚があったといえるでしょう。

 

日本でも、第二次大戦後から10年間代表チームの右ウイングであった鴇田正憲(ときた・まさのり)はドリブルで外へ逃げて、的確にクロスをゴール前へ走りこんだプレーヤーですが、彼はO型(両足とも)でした。

【変幻自在のドリブル】

その変幻自在のドリブルを象徴するphotoがHEINEMANN社発行の「100 YEARS OF SOCCER IN PICTURES」(イングランドのFA100周年記念出版物のひとつ)に掲載されています。1962年ワールドカップの1次リーグ第3組の対メキシコ(2-0)でペナルティエリア内(ゴールエリアのすぐ近く)で、彼を5人のメキシコ選手が囲み、なお、その外に3人が構えている図柄です。版権の問題があるので、写真をそのままここでお見せできないのは残念ですが・・・

【ガリンシャの晩年】

最初のパウグランデ(Pau Grande)からボタファゴ、コリンチャンス、ジュニオール・バランキージャ(Junior Barraquilla/コロンビア)、フラメンゴ、レッドスター・パリ(フランス)などでプレーしたのち、1969年にフラメンゴと1年の契約をしたが、ヒザのケガのために引退。スカウトとなったが、天衣無縫(てんいむほう)のドリブラーであった彼は人生も型やぶりで8人の娘と妻を持ちながらラジオで有名な歌手、エルザ・ソアレスのもとに走り、最後にはアルコール中毒になってしまった。

ワールドカップの栄光を共にした仲間たちが彼のために募金の試合をして援助したが、1983年1月20日に貧困のうちに死亡しました。

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