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2003年2月

いい試合だったのに関西の報道はさっぱり—

2003/02/18(火)

「A3マツダ・チャンピオンズカップ2003」が2月16日からはじまった。英語ふうの言い方をすると東アジアの日本・韓国・中国の3か国のチャンピオンズ (トップリーグの優勝チーム)、つまり、Jリーグのジュビロ磐田、Kリーグの城南一和、Cリーグの大連実徳と、開催国からもう1チームとして2002年ヤマザキナビスコ杯優勝(リーグ・カップ・ウイナー)鹿島アントラーズを加えた4チームのリーグ形式による東京トーナメント(東京に集まっての大会)である。16日は国立競技場で磐田と城南、鹿島と大連が行なわれ、城南が2−0、鹿島が3−1で勝って、それぞれ1勝をあげた。

◆第2戦は、19日(水) 国立競技場で
16:00 城南(Seongnam) 対 大連(Dalian)
19:00 磐田(Iwata) 対 鹿島(Kashima)

◆最終戦は、22日(土) 国立競技場で
13:30 鹿島 対 城南
16:30 大連 対 磐田  となっている。

第1戦を見た限りでは、この大会はなかなかいい催しと思える。2月16日は雨のために観客にも選手にも気の毒なコンディションとなった。(ワールドカップ開催国の首都にある国立競技場がいまなお、スタンドのほとんどが屋根なしというのも不思議なことだが・・・。その事実を改めて知っただけでも大会の意義があったかナー)けれど、試合内容は、それぞれのチームとその背景と3つの国のサッカーのカラーが出てとても面白かった。

テレビ放映も自動車メーカーのマツダが奮発していわゆる冠スポンサーとなったおかげで民放の地上波が実況の番組を組んでくれたので、関西のファンも見ることができた。ただし、翌日の新聞は、一般誌もスポーツも扱いが小さくメンバーも掲載されていなかったのには驚いた。サッカーマガジンに問い合わせて、東京の各紙について教えてもらったら、さすがに東京ではスポーツ紙のほとんどはメンバーも掲載して、まずまずの報道ぶりだが、関西のスポーツ紙では中村俊輔 (レッジーナ)の記事のスペースの半分かそれ以下という傾向だった。

さて試合の内容は—

磐田 0−2 城南
城南一和の完勝だった。
いい試合だった。
アジアの単独チーム同士がこの程度のプレーを競い合えるようになったのか—とうれしかった。

「磐田完敗。まだ冬眠」というA紙の見出しに代表されるように磐田がシーズン前でコンディションが完全でないという見方が多いようだが、そうとばかりはいえまい。むしろ韓国のチャンピオンがJのチャンピオンを充分に研究し「勝ちたい」という強い意志を持ちつづけたことが勝敗にあらわれたといえる。磐田の看板のパスが「うまくゆかなかった」と見ることもできるし、「うまくやらせなかった」と見ることも出来る。

【象徴的なポイントを4つあげておくと】

1)1点目のもととなった韓国のエリア外からのFK、シン・テヨンの右のシュートは素晴らしかったが、朝日新聞(大阪)のカラー写真は日本の5人がつくったカベの左から3人目田中と4人目中山の間をボールが抜ける瞬間をみごとにとらえている。

これで見ると田中のシャンプが遅れて、そのためにボールが顔の高さへ飛んできて、それを避ける形になって隙間があいたように見える。もし、隣の福西や中山と同じタイミングでジャンプしておればボールは彼の左肩か胸に当たったのではないか。飛んでくるボールが顔にくれば避けるのは本能だろうから、この場合は、何故ジャンプのタイミングが合わなかったのかが問題となる。

ついでながら、この写真は中山がジャンプしながら自分のすぐ近くへ飛んでくるボールを注視していることも見せてくれる。この中山のボールを注視しながらのジャンプは、1998年のフランス代表キャプテン、デシャンがカベの中でボールを見据えながらジャンプしていたのと同じ感銘をうけた。

ついでながら、サッカーマガジン(週刊)に現在執筆中の「世界一蹴」2002年ワールドカップの旅(隔週掲載)のアルゼンチン敗退のところで、第3戦の対スウェーデンで相手のFKのときに頭上を超えるボールにカベの誰もがジャンプしなかったことも紹介している。

2)そして、このFKが福西のパスミスで相手にわたったのを鈴木が奪い返そうとして犯したファウルによるものであったこと。

福西はボールを扱う姿勢の美しい上手なプレーヤー。競り合いにも強い方だが、この日の調子はもうひとイキだったが、狭いスペースのなかから藤田に送ろうとした右足のキックミスで相手にボールがわたってしまったもの。ビデオスローで繰り返し見たわけではないから詳細はわからないが、彼のようないいプレーヤーでもこうしたミスがあるのだから、サッカーは気が抜けないものだ。

3)相手に奪われた2点目は、ノーマークとなったキム・デイの左足のクリーンシュートだが、彼がノーマークになったのは相手右サイドのサーシャのボールを奪いにいった山西が大きくかわされたのがひびいた。

190センチもあってリーチの長いサーシャに対して、詰め方や奪いにゆき方、つまり1対1の応対に問題があった。

4)9本のCKや左右からの数多いクロスがことごとく不成功だったのは、高原不在の影響も当然あるだろうが、クロスの精度が藤田たちにいつもほどなかったのと、それでいて、タイミングが常識的だったことにあるのではないか。

西が大きくボールを出して左を突破しクロスを蹴って、相手の足にあたり左CKとなった(20分ごろだった)ことがあったが、あの場面で相手は追いつくのがいっぱいだったから、キックフェイントで抜いてゴールラインまで持ちこみ、もっと深い位置でクロスを出すか、自らドリブルシュートまでいってもよかったのではないか—

ジュビロ磐田というのは技術も戦術も個人もチームも日本のなかで、よくここまでのレベルになったというほどのクラブだが、まだまだ上達しなければならない点があることを知っただけでも、この日の対戦は有意義だったと思う。

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高原のハンブルグでの活躍を願って

2003/02/15(土)

高原直泰がハンブルガー・シュポルツ・フェライン(HSV)に加わった。
           
          彼がドイツで、活躍し、さらに力を伸ばすことを、先ず願うのだが、同時に彼によってドイツに興味を持つ人が増えればさらにうれしい。
           
2002年ワールドカップのファイナリストになるまで、ここしばらくのドイツ代表は国際舞台での華やかな活躍はなく、サッカー人の間でも関心は薄れていた けれど、ワールドカップで3度優勝、欧州選手権でも3度のタイトルとヨーロッパ第1級のサッカー国であり、1900年創設のドイツ・サッカー協会 (DEUTSCHER FUSSBALL-BUND)はいま登録クラブ27,000、登録プレーヤー526万人のビッグな組織である。1億2000万人の日本の登録プレーヤーが 80万人であるのに比べると、人口8200万のドイツ・サッカーの厚さに改めて驚くことになる。
           
          高原が移ったハンブルガーSV、略称HSV(ハー・エス・ファー)は、このドイツの頂点にあるブンデス・リーガ(BUNDES LIGA = 連邦リーグ           = つまり全国リーグ)の1部(18チーム)のなかの名門クラブで、ドイツ北部の港町ハンブルク(HAMBURG)がホームである。
           
          【歴史ある港町の伝統のチーム】
           
北海に流れこむエルベ川の河口から100キロにあるハンブルクは、河川港として古くから発達し、中世に栄えたハンザ同盟の中心地となった。ドイツでは車の ナンバーに都市名のアルファベットがつき、ベルリンはB、ケルンはKだが、ハンブルクはハノーファー(H)と区別するために古名の「H.H」(ハンザ・ハ ンブルク)をつけている。
           
          サッカーの導入もドイツでは一番早く、1876年にドイツ語の最初のルールブックが印刷されたのもこの地だった。
           
HSVは1987年に設立され、ブンデス・リーガ(1963年に開幕)で優勝3回、1983年には欧州チャンピオンズ・カップ(現チャンピオンズ・リー グ)に優勝した。その年12月11日のトヨタカップで来日し、ブラジルのグレミオと大激戦を演じて、1−2で惜敗したが、後半40分のマガトのFKからヤ コブスがヘッドで落とし、シュレーダーが決めた同点ゴールは、今も記憶に残っている。
           
          【ウベ・ゼーラーとボンバー、そしてスシ・ボンバー】
           
          このチームから生まれた名選手のなかで、前述の70年代から80年代の黄金期のフェリックス・マガト(MF)やFBのマンフレート・カルツたちは、私達にも馴染みだが、最も有名なのは、ウベ・ゼーラー(UWE           SEELER)。1936年生まれでドイツ代表72試合(43得点)、ワールドカップに1958年から4回出場、66年準優勝、70年3位に貢献したストライカーがいる。
           
日本でいえばジュビロの中山雅史のように、常に闘志あふれるプレーで、ファンを惹きつけた。そのゼーラーとともに、70年ワールドカップを戦って、得点王 となったゲルト・ミュラー(1945年生まれ バイエルン・ミュンヘン)のニックネームがボンバー(爆撃機)。高原の新しいニックネーム、スシ・ボンバー が、ここから来ているとすれば、このクラブに彼は、縁があったといえるだろう。
           
          そういえば彼が生まれた1979年はHSVがブンデスリーガで最初の優勝をした年だ。
           
          【追記】
           
ハンブルクやドイツのサッカーについては、このあとも何回か触れますが、「Kagawa Soccer Library」の、ワールドカップの旅「1974年西ドイツ」の13番目の記事として、私が初めて訪れたハンブルクについて「豊かなハンザ・ハンブル ク」という表題で書いています。
          ご参考に— >>http://www.fcjapan.co.jp/KSL/story/336.html
           
          また今度の高原選手の住居は、この中にある外アルスター湖の東北にある住宅地のようです。

       

 2月15日

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拝復、ガリンシャのことです。

2003/02/10(月)

※「拝啓、賀川さん」へブラジルにおられるNさんから寄せられたメッセージへのお返事です。

【ドリブルの名手】

マノエル・フランシスコ・ドス・サントス
(Manoel Francisco dos Santos)
1933-1983年

通称ガリンシャはペレよりも7歳年長で、ニックネーム「ガリンシャ」(小さな鳥)のように捉えがたいドリブルの名手として知られています。ブラジル代表、 57試合(15得点)ワールドカップには1958、62、66年の3大会に出場、12試合、5得点を記録。優勝2回の実績で1958年には第4組のブラジルの第3戦(対ソ連)にペレと共に大会に初登場してブラジルの優勝に貢献しました。

この大会の決勝でスウェーデンに0-1とリードされたあと、ブラジルは2ゴールをあげて逆転するが、その2ゴールはいずれもガリンシャの右サイドの突破と強いグラウンダーのクロスからでした。

1962年チリ大会では、ペレがケガで戦列を離れたあとも、新人アマリウドとガリンシャの活躍でブラジルはタイトルを守った。準々決勝(対イングランド、3-1)の彼の2ゴール、準決勝対チリ(4-2)の同じく彼の2ゴールはドリブルだけでなく、さあというときに頼りになるストライカーであることを示した。62年大会をガリンシャの大会と呼ぶ人もあるほどです。1966年の1次リーグ第3組の第1戦対ブルガリア(2−0)でのFKのゴールが彼のワールドカップでの5点目で、最後のゴールとなった。

【奇形の両足】

貧困家庭に生まれポリオ(脊髄性小児麻痺)のために奇形だった彼は、幼いころ手術でよくはなったが、左足はX型、右足はO型という変わった形になってしまった。

この左右の長さの違う足と天性のスピードは、特有のドリブルになって相手のDFを困らせることになる。ボタフォゴのテストを受けたとき、カルドッソ監督を驚かせ、彼のドリブルの相手をしたニルトン・サントス(1958年、62年ブラジル代表 W杯優勝メンバー)は、そのフェイントに幻惑されてターンのときに足をくじいたというエピソードがある。

私自身はナマの彼は残念ながら見ていませんが、緩急の大きな落差、立ちどまり、相手もあわせて止まったときに、爆発的なスピードで出てゆくのが大きな特徴であり、またO型の右足で右からのクロスは得意であっただけでなく、右足でかかえこむような切り返しや、アウトサイドでのボールタッチに独特の「間」(ま)や感覚があったといえるでしょう。

 

日本でも、第二次大戦後から10年間代表チームの右ウイングであった鴇田正憲(ときた・まさのり)はドリブルで外へ逃げて、的確にクロスをゴール前へ走りこんだプレーヤーですが、彼はO型(両足とも)でした。

【変幻自在のドリブル】

その変幻自在のドリブルを象徴するphotoがHEINEMANN社発行の「100 YEARS OF SOCCER IN PICTURES」(イングランドのFA100周年記念出版物のひとつ)に掲載されています。1962年ワールドカップの1次リーグ第3組の対メキシコ(2-0)でペナルティエリア内(ゴールエリアのすぐ近く)で、彼を5人のメキシコ選手が囲み、なお、その外に3人が構えている図柄です。版権の問題があるので、写真をそのままここでお見せできないのは残念ですが・・・

【ガリンシャの晩年】

最初のパウグランデ(Pau Grande)からボタファゴ、コリンチャンス、ジュニオール・バランキージャ(Junior Barraquilla/コロンビア)、フラメンゴ、レッドスター・パリ(フランス)などでプレーしたのち、1969年にフラメンゴと1年の契約をしたが、ヒザのケガのために引退。スカウトとなったが、天衣無縫(てんいむほう)のドリブラーであった彼は人生も型やぶりで8人の娘と妻を持ちながらラジオで有名な歌手、エルザ・ソアレスのもとに走り、最後にはアルコール中毒になってしまった。

ワールドカップの栄光を共にした仲間たちが彼のために募金の試合をして援助したが、1983年1月20日に貧困のうちに死亡しました。

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兵庫サッカー塾で語った“個性”

2003/02/05(水)

1月18日に兵庫サッカー塾に参加した。滝川第ニ高校の黒田和生先生(監督)が兵庫のレベルアップのためにと、若い指導者に呼びかけ、そこでサッカーの技術についての私の考えを語れ — とのことで、スピーチをした。会場は滝川第ニ高校の会議室。18時から2時間の予定、1時間15分をスピーチ、残りを質問にあて、結局は合計2時間30分かかった。

【個性ということ】

「one for all, all for one」というチームゲームの考え方。そして、個人技術の重要性が主な内容だった。日本のサッカー界では、90分の試合のうち1人のプレーヤーがボールにふれる時間は3〜4分、残りはふれていない時間だから、withoutボールの時間がどれほど大切かということを強調しがちだが、私はそのことと同様に、わずか3〜4分、回数にすれば10〜20回くらいしかないwith ballのプレーがどれだけ大切かを言いたかった。訓練によって組織的な動きが出来るようになり、鍛錬によって相手以上によく走っても、シュートをゴールのなかに入れなければ勝てないし、折角奪ったボールを味方へ渡すのにミスをして相手に取られ、そこから失点につながることもあるが、これらはボールテクニックの未熟から来ている。

世界的なオーケストラの指揮者である小澤征爾さんが最近のテレビ番組に出演したとき、「大切に思っている言葉を」という司会者に示した色紙には「個」と書かれていた。

サッカーでも個性の重要さをいうが個性とはなにか、体が大きいのも個性であり、体が小さいのも個性である。(小さいのを必ずしも欠点と思わないこと)

【技術の個性とキック】

そしてまた、技術の個性とはなにか — については、そのプレーヤーが持つ、一番得意なキックの角度が個性ではないかと思っていることを述べた。この点については、FCJAPANのサイトで当日のスピーチとして、コンテンツにはいっているハズだが、こういう話しについて若い指導者たちから、感想も寄せられ、なにがしらの参考になったようだった。

もちろんこうした、こうした話は中田英寿、ヨハン・クライフをはじめとする優れたプレーヤーの具体例をあげてのことだが、実際は試合を見ながら、あるいは試合のビデオをみながら、それも、中田やクライフやロナウドほどでなくても、もっと身近なレベル(例えば、1月26日に兵庫県で行なわれたヴィッセル対兵庫ドリーム)の方が理解しやすかったであろう。

要は技術について、どうすればミスをなくし、どうすれば上手になるか、どうすれば、ボールを目標に届けられるか、ボールの下を蹴るのか、外を蹴るのか、内を蹴るのか。足のどこを使うのかなどについて、コーチたちは考え、工夫してほしいということになるが、まぁ、第1回として何か指導について自ら考え工夫するための刺激になってもらえれば、まず黒田先生の狙いは成功といえるのだが・・・

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兵庫ドリームサッカー

2003/02/03(月)

テレビの放送が日本ではじまって50周年を記念するNHKの番組が、ラストにかかっていた2月1日の夜、いきなりテレビの画面にあらわれた文字がスペースシャトルの事故を伝えていた。しばらくして、青い空に白い煙を引いて落下するスペースシャトルとその破片らしいものが映し出された。なんともやりきれない休日となった。気をとりなおしてサッカーのお話にしましょう。

"兵庫出身のJリーグのプレイヤーを集めた試合を見たい"こういう夢が大震災から8年のちに実現した。1月26日に神戸ユニバー記念競技場でのこの試合にとても寒い日だったが一万人を超えるファンが集まり、奥大介(横浜Fマリノス)、木場昌雄(ガンバ大阪)といった熟練組から、林丈統(ジェフ市原)、朴康造(パクカンジョ)らの、「ドリーム兵庫」と「ヴィッセル神戸」の試合を楽しんだ。

【ヴィッセル神戸 1 (1-0、0-2) 2 ドリーム兵庫】
Ds2003
日本代表の明神選手と波戸選手が故障のために参加できなかったのはファンには残念だったろうが、懐かしい神戸のグラウンドに戻ってきた兵庫出身のプレイヤー達はほとんどが、まだ充分に体づくりのできていないなかで、家族や友人や母校の指導者たちの前でしっかりしたプレーを見せた。ヴィッセル神戸は、今回練習のスタート後5日というもっとも疲れのたまる時期で、動きは重かったが、レギュラーを揃えた前半には先制ゴールをあげて試合を面白くした。副島新監督は、後半どしどし交代を送りこんで総動員した。ドリーム兵庫側にも今期、ヴィッセル神戸に加わる朴選手や和多田選手などもいたから神戸のサポーターはこの日の試合でまず今年のヴィッセルの陣客を見たことになった。

【奥大介の存在】
この試合の計画を聞いたときに最初に私が言ったのは「ドリーム側に奥選手は来てくれるのだろうか」ということだった。チームの芯になる選手で、かついいパスを出して仲間のプレーを引き出す---といえば今の兵庫出身者で彼は№1。彼が来ればチームはまとまるだろうし、攻撃展開も出来ると思ったからだ。日程の面でやりくりして前夜祭には欠席して当日にかけつけ、前半の30分からピッチに立った。

後半の2ゴールはともに彼のパスからで、1点目(同点ゴール)は相手ボールを奪ってドリブルし、右前のスペースへ出して和多田選手がこれをとってGKをもかわして流しこんだ。2点目は中盤の左よりにいた奥選手が右へ開いた林丈統選手にロングパスを送り、林選手がドリブルして加地選手のあがりを待ち、加地選手が受けてDFをはずして深い位置(ゴールラインぎりぎり)から中へグラウンダーを送ったのがヴィッセルの山口選手に当たってオウンゴールとなったもの。奥選手の短と長の2本のパスがゴールを生んだのだった。1976年生まれの彼を神戸弘陵高校時代に一度だけ見た。関西協会の技術委員長をしていたときで、関西トレーニングセンターの高校の練習会で小柄なドリブルの上手な彼に感心したのだった。高校を出た奥選手がジュビロへいったと聞いて関西のチームは何故、彼を逃したのかと残念に思った。

【加地亮のこと】
2点目のゴールを奪う直接のプレーをした加地亮は、セレッソ大阪に在籍したとき何度かプレーを見ている。柔軟なボール扱いと身のこなし、スピードもあって将来性を期待されたが、どういうわけかセレッソから大分→FC東京へと移ってしまった。林選手の右横を駆け上がり、パスを受け、キックフェイントでDFをかわしてもうひとつ持ってフリーで中へ狙ってパスを送ったところが彼のプレー。もともと右に開いてボールを受けたときに内側にかかえこむようにボールを止め、体もいったん止まってしまうところが不満だったが、この日のプレーでは(相手のプレッシングも少なかったが)それは見られず、後半はじめにハーフラインあたりからダイレクトのやわらかいタテパスを林選手に送ってシュートまでゆかせたところに進歩ぶりが見られた。

サッカーというのは、プレイヤーの配置—いわゆるフォーメーションとかシステムということも大切だし、プレイヤー同士の確保も連係も重要なことだが、その基幹となる個々のプレイヤーがどういうテクニックを使えるか(あるいは使ったか)を見極めることがチーム力アップにつながると私は思っている。兵庫の指導者にとって身近な存在のプレイヤーが集まった「ドリームサッカー2003」で、コーチの皆さんは何を思い感じてくれただろうか。

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