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2003年1月

サッカーの本のはなし 〜最近の新刊から〜

2003/01/22(水)

2002年ワールドカップが終わって大会についてのさまざまな書物が出版されたが、講談社から
          1)「山本昌邦備忘録」トルシエジャパンの1369日(山本昌邦著)1700円
          2)「蹴球日記」岡田武史にしか書けないワールドカップがここにある 岡田武史著)1600円
          3)「日本代表監督論」日本代表をつくってきた男たちの10年(潮智史著)1600円
          の3冊がたてつづけに出版された。

       

1)はトルシエ監督と4年近く、日本代表のチームづくりにあたった山本昌邦コーチの克明なトルシエとの協力(あるいは戦い)とチームの変化・成長を個々のプレーヤーにもふれながら記したもので、まずは得難い読みもの。

       

ひとつの大会のあとで、これだけ詳しい当事者のレポートはこれまでも公式、非公式を問わず日本には少なかった。(1936年ベルリンと、1968年メキシコの両オリンピックについては、それぞれ丹念な記述はあるが)

       

2) は岡田武史のこれまでの人生にもふれながら大会観戦、放送解説にとび歩く大会の日々を綴ったもの。フランス・ワールドカップの日本代表の監督であり、クラ ブの監督コーチをつとめたキャリアを記述のなかに込め、各国の監督たちに関しては同じ立場としての配慮がうかがわれる。

       

3)は朝日新聞のスポーツ記者、潮智史が94、98、2002の3大会を取材、とくに日本代表を予選からずーっと見てきた上での監督論、トルシエに関してはある時期トルシエ解任報道に熱心にみえた新聞社にいる人だけに興味のあるところ。

       

多くの人に、いま一番の興味はトルシエというフランス人の監督についての話と、とくに第2ラウンド初戦、対トルコ戦のメンバー決定への経緯だろうが、それについても、書かれているから、大会の半年後に改めて読んでみるのも面白いと思う。

       

私 のこれらについての感想は別の機会に述べるが、トルシエという監督については、彼は能力いっぱいに働き、若いプレーヤーに目をつけ、育て成果をあげた。た だし、日本開催というまたとない機会を捉えて、折角ついた実力に(暑さのハンデをプラスにして)上位にゆけるチャンスを失ったことは確かである。

       

こ のトルシエより他に外国のいい監督を招く力があったのか、日本人のなかから選んで仕事をさせる力が協会に、あるいは日本サッカー界全体(メディアも含め て)にあったのかどうか。結局はトルシエを招いたのが日本サッカーの実力だったのだろうと思っている。カルロス・ゴーンさんを招いたのはわが国の自動車業 界の実力だと私は思っているのだが。

       

ついでながら、この3冊のなかに、いぜんとして大会の公式用語にない(日本だけは使っている)「決勝トーナメント」という言葉が随所に出てくる。せっかくいい本が出てくれても、こういう点が修正されていないのはいささか淋しい。

       

          ちょっとケチをつけたが、講談社から「フットボール ニッポン」という季刊誌が昨年12月に発行された。なかなか充実した読物がそろっていて、ジーコとのインタビュー(増島みどり)は手厚い。

       

          大会後の出版物といえば、双葉社発行「日本サッカー史」代表篇 日本代表の85年 (後藤健生著)2000円を忘れてはなるまい。

       

サッカー博士ともいうべき後藤健生(ごとう・たけお)が綿密に資料を調べて書き上げ359ページの本文に巻末の64ページの記録を加えた力作だ。大正年間の極東大会からの日本代表の歩みを記したものとしては、現在これほどまとまっているものはないといえる。

       

もともと、こういうものは私が書かなければいけないのだろうが、私の場合、日本サッカー史はあまりに身近かすぎて、出版までに到っていない。まずは歴史に残るものを作ってもらったことに感謝したい。

       

そうそう、もちろんこの本には2002年大会のことも、45ページにわたって書きこまれている。

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会員のみなさんとのWEBサロン

2003/01/17(金)

70歳になったらサッカー好きの仲間とそのときどきの試合や選手のプレーをはじめ、日本と世界の話題を語り合える小さ なサロンを持ちたいと、多少の準備をし、書庫兼用のルームも用意しました。それが阪神大震災のために被害をうけてストップしてしまいました。その思いは震 災の3年目のインターネットのKagawa Soccer Libraryとなり、さらに拡大して、サッカー人のためのサイト、FCJAPANのスタートと新会社、(株)クラブハウス(CLUBHOUSE)の設立 につながりました。
           
おかげさまで、FCJAPANのコンテンツは拡大し、アクセスも増え、毎日お送りするメールマガジンは4万をこえるようになりました。本多克己社長をはじ めスタッフの努力と皆様のサポートのおかげですが、FCJAPANの新しい企画として私がはじめに考えた「語り合えるサロン」をホームページではじめたい と思います。

       

これまでの書き物も、雑誌の連載や単行本でもひとつのデーマに沿ったものが多かったのですが、こんどはそのときどきに、いわば勝手、気ままに話題をとり上げて書いてみたい。週1回は最低のペースのつもりですが、2回になり、3回とお送りすることもあるでしょう。

       

片言隻句(へんげんせっく)という、いささか固い漢字ばかりの表題ですが、一言、一句、つまり「ひとこと」というていどのことです。

       

もちろん、これは、サッカーマガジンにいま隔週掲載している「ワールドカップの旅」や他の雑誌や新聞への寄稿とも関連もあり、ときには、ページや行数でしばられるそれらの書きものを、補完することもあると思います。
       

       

すでにジーコ監督についてなどをはじめ何本かの片言隻句を配信し、このサイトに収録してあります。これについてのご意見やあるいは全く別の質問でも結構ですからどしどしお寄せください

       

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FIFAオールスターでの中田英寿とカカ

2003/01/11(土)

京都サンガが優勝した天皇杯や国見と市立船橋が勝ち残った高校選手権といった国内の試合とともに海外のリーグがどしどしテレビで伝えられる。それにデフレ対策とか構造改革といった評論家たちが議論する番組も面白くて、ついついテレビの前にいる時間が長い。京都風の白ミソ、頭(かしら)イモと小イモ、大根の雑煮から七草ガユまでアっという間に過ぎてしまった。

たくさん年賀状を頂いた方々に、こちらからお送りしていない失礼もあった。まずはこの場でお礼とおわびを申し上げる。

FIFAオールスターでの中田英寿とカカ(ブラジル)

今日の話題はちょっと古いが12月18日に行なわれたレアル・マドリード対ワールドオールスター。レアル・マドリードのクラブ創設100周年記念行事として行なわれたこの試合で、日本の中田英寿が、すばらしいプレーを演じて世界のスターとしての存在感をみせたこと。

【FIFAの配慮】

FIFAのブラッター会長によれば世界各国の登録クラブ数は305,000あり、その頂点に立つレアル・マドリード(1902年3月6日創立)の記念行事にFIFAは協力して、記念チャリティー試合を公式カレンダーに組み入れるとともに、12月16、17日にFIFAの会議と2002FIFA優秀選手の表彰式をマドリードで行なうことにした。ひとつのクラブの祝賀行事にFIFAが花をそえたというわけだ。

 【中田の意欲と巧技】

 ワールド・オールスター・イレブンの先発は、
 GK カバジェロ(アルゼンチン)
 DF カフー(ブラジル)、マルディーニ(イタリア)、マルケス(メキシコ)、リザラズ(フランス)
 MF 中田、リバウド(ブラジル)、バラック(ドイツ)、バラハ(スペイン)
 FW クローゼ(ドイツ)、Rバッジョ(イタリア)
 相手のレアルは、
 GK カシジャス
 DF イバン・エルゲラ、ラウル・ブラボ、ミニャンブレス、パボン
 MF ジダン、フィーゴ、F・コンセイソン、グティ
 FW ラウル、ロナウド

こういうエキシビジョン試合は激しいプレッシングが少ないのが普通で、そのため、各選手のボールテクニックが発揮されやすいのだが、レアルの方は連戦の疲れで彼らの誇るスター群の攻撃陣の動きが鈍く、それにロベルト・カルロスの欠場の影響が出ていたのに対して、オールスターの方は、ボールを動かして前半に3ゴールを奪ってしまった。

その1点目は、左サイドに開いたバッジョがノーマークでキープし、クローゼの走りこみにあわせてピタリと合わせるクロスを送り、クローゼが決めたが、そのバッジョへ右サイドから長いパスを送ったのが中田。彼の読みと展開力で、ボールを受けたバッジョには充分な余裕があり、相手のDFラインを牽制しつつ、クローゼの飛び出しを待って、それ合わせる得意のピンポイント・パスを送ることができた。

中田はこの日に2度シュートをした。1本目はドリブルから、2本目はダイレクトで、クローゼがヘッドで落としたのに走りこんで蹴ったもの。2本とも左で、1本目は弱く2本目はリキんで、叩きつけ方が悪かった。こういう試合で、右サイドの位置から正面へあらわれてシュートをしようというところに彼の意欲があり、そしてまた、走りこんでみる中田にクローゼがヘッドで合わせて落とすところに彼の存在感があったといえる。

FIFAオールスターは、各国から選ばれた24人をすべて登場させたために、中田をはじめとするスターティングライン・アップは後半はがらりと変わり、レアルは元気な若手を投入して後半に3ゴールをあげて3−3の引き分けとなった。サッカーで走ることの大切さをみせつけた結果だが、前半にオールスターの2点目を決めたカカのドリブルシュートが私には驚きだった。

やや左よりから中へドリブルで持ちこんで、3人の相手をかわしつつ、コースがあいた瞬間に右足のインサイドで右下すみへ蹴った — その右足の小さなバックスイングとはやさ、ボールのコースのコントロールに、ブラジルには、ロナウドと同じように、小さな、早い振りのシュートのできるFWがあらわれるのだ  — と感嘆した。

【1968年 FIFAオールスターと釜本邦茂】

レアルのようなビッグクラブ、あるいはある国の協会創立を記念して、古くからFIFAオールスターや欧州オールスターが選抜され、祝賀記念マッチをしてきたなかで、日本の私たちの記憶にあるのは、1968年11月に行なわれたブラジル協会創立50周年記念試合。リオのマラカナン競技場でのこの試合の FIFAオールスターの監督はデットマル・クラーマーだった。当時FIFAの技術委員であり、コーチとして各国の指導にあたっていたクラーマーはこの年 10月24日、メキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本チームから釜本邦茂を選び、日本協会にも通知した。オリンピックが終わったあとメキシコから日本チームとともに、日本に帰るか、あるいはブラジルに飛んで、オールスターに合流するかの選択は釜本本人に任されたが、釜本はチームとともに帰国した。

このオールスターにはベッケンバウアーやオベラート(西ドイツ)、GKヤシン(ソ連)、マズルケビッチ(ウルグアイ)、DFのペルフーモ(アルゼンチン)、FWではハンガリーのフロリアン・アルバート、ユーゴのジャイッチ、スペインのアマンシオといったそうそうたるメンバーがいた。もちろん相手のブラジルには王様ペレもいた。もし出場しておれば、メキシコ・オリンピック得点王、24歳の伸び盛りの彼のサッカー人生は大きく変わったかも知れない。

しかし当時はこのFIFAオールスターに出場することがどれほどのことか、彼の周辺も彼自身もまだ理解していなかったし、9月12日に検見川に集結してからの3位決定戦までの40余日の緊張のあと、疲れて早く帰りたい気分でいたのだった。

このブラジル対FIFAオールスターはなかなかの好ゲームで2-1でブラジル代表が勝ったが、あとでヤシンがクラーマーに「カマモトが来ていたら勝っただろうに」といったという。

【12年後にバルセロナでオールスターに】

1980年のヨーロッパ選手権を取材していたとき、イレブン誌の手塚編集長が、ユーゴ人の記者でプロモーターである人物から「12月のバルセロナFCの創立80周年記念試合にバルサの相手となるユニセフ世界選抜に日本からスター選手を送ってほしい」という話を聞いた — と私に相談してきた。ドイツにいる奥寺選手よりも、日本から送ってくれる方がいいのだということなので、それならば釜本邦茂だと答えておいた。計画が進むことになって長沼健理事長に話すと、ユニセフから公式文書をもらえば、日本協会としては異存はないとのことだったので、その手配をし、ヤンマーの山岡浩二郎総監督の承諾を得て、彼の参加が決まった。ユニセフ・オールスターの監督は80年欧州選手権優勝の西ドイツを率いたユップ・デアバル。1968年冬に釜本がドイツへ留学したときに直接コーチしてくれたデアバルは、釜本が12年後もまだプレーし、その年ヤンマーの日本リーグ優勝に貢献したことを知っていた。

24歳の働き盛りのプレーにくらべてスピードは衰えていた釜本だが、後半に出場し、クライフ(オランダ)、プラティニ(フランス)、ボンホフ(ドイツ)、キナリア(イタリア→アメリカ)などとともにプレーをし、彼にとっての何よりの勲章となった。

【中田につづくものは・・・】

中田英寿はすでに1997年12月に98年フランスワールドカップの組み合わせ抽選会の前にマルセイユで行なわれた世界オールスター対欧州オールスター戦に出場し、堂々たるプレーをみせた。その後2度、こうした催しに出場していて、今度4回目だが、いよいよ彼は、世界のオールスターに欠かせぬ顔となってきた。

釜本時代と違って、いまや世界に開かれた日本から、中田英寿につづいて世界の顔になってゆくのは・・・

日本サッカーにはユメ多い21世紀となった。

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天皇杯 鹿島アントラーズ vs 京都パープルサンガ

2003/01/06(月)

新年のご挨拶

2003年
明けましておめでとうございます。
日本の経済・社会には大不況やデフレやそして失業などの問題があり、世界にもイランや北朝鮮をはじめ多くの緊張のタネもあるが、私の周辺はまずまず平穏な元旦を迎え三カ日を過ごすことができた。
まことに有難いこと—

天皇杯 鹿島アントラーズ vs 京都パープルサンガ

 1月1日 (国立競技場)
 鹿島アントラーズ 1 (前半1-0) 2 京都パープルサンガ

【サンガの天皇杯優勝】

新年早々、関西人の私には京都サンガの天皇杯獲得といううれしい出来事があった。

鹿島との元旦決勝は、テレビ解説で早野氏が「京都の勢い」を強調していたが、まことに勢いを感じさせる試合ぶり。後半になっても動きのスピードは鈍ることなく、攻撃のときに、まるで沸いて出てくるような壮快なランプレーが続いた。国立競技場に集まった5万人の観衆は改めてサッカーの面白さを感じてくださったことと思う。

【黒部も松井も朴も、そして全員が・・・】

黒部という体に瞬発力と持ちこたえる力を備えたストライカーと、若くしてすでに緩・急ドリブルを身につけている松井とワールドカップ4位の韓国代表・朴智星のFWの強さはいうまでもないが、第2列目から走りあがる鈴木慎や冨田、さらに落ち着いた守りと配給の石丸、積極的な齋藤たちのMF、そして鈴木和、手島、角田のDFラインとGK平井の誰もが、局面でのボールの奪い合いに強い気迫を持ちつづけた。

前半こそ、鹿島の経験からくる「読み」を打ち破れず、カウンターで1点を失ったが、後半5分に右CKから朴のヘディングで同点としたあとは、彼らの技術に裏うちされた気迫とランが「経験」を圧迫した。

その同点ゴールは富田の右サイドでのドリブル突破を止めようとした、相手側の反則による、タッチぎわのFKからだった。左で強いタマを蹴れる鈴木慎の速いボールに、朴がファビアーノにせり勝ってヘディングを決めたが、そのニヤーサイドに斎藤が飛び込んでいった(ヘディングはしなかった)のも、カゲの力となったハズだ。

後半35分の2点目は黒部のシュートだったが、アプローチはまず、1)中央右より、相手のミスのボールを自陣で拾った松井が、ドリブリし左に開いた黒部へ長い速いパスを送り2)黒部が左から中へドリブルして、エリア内にはいっていた鈴木慎にパス、鈴木とせり合ったアウグストの左足にあたったボールが黒部の前へころがったもの。

テレビのアップは、ややむずかしい姿勢ながら黒部がしっかり右足(立ち足)の上に体をのせて、左足インサイドでボールをとらえるところを映し出していたが、このあたりが、黒部という選手の粘っこい体の強さを表している。

【ありがとう、稲盛さん】

こうして京都サンガは天皇杯で初優勝した。

J1チームの天皇杯へのアプローチは4試合だけではあるが、イングランドのFAカップに倣ったその年度の協会加盟チームのナンバーワンを決めるノックアウトシステムのタイトルは参加6000チームの頂点に立つものとして高く評価される。

試合のあと、選手たちが一番に胴上げしたのは稲盛さんだった。

京セラという企業を起こし成功し、京都の市民のためにと、サンガの設立以来、バックアップしてきた稲盛和夫、京セラ名誉会長の度量と経済的な後ろ盾がなければ、京都にこのクラブが育ち、こうしたいいチームが、元旦の国立競技場で勝つまでにはならなかったと思う。

バックアップ体制がしっかりしているのにくらべて、スタート直後からしばらく私たちサッカー人仲間の力不足で、稲盛さんを何度も失望させてきた。負けず嫌いの稲盛さんにとって、強くならないサンガにはずいぶんハラ立たしいこともあったハズだ。幸いなことにエンゲルスという地味だが、能力のある監督を得て、 1978年〜82年生まれを主力とするチームはJ2から昇格した2002年にみごとなチームとなって、J1でも上位の1/3に食い込み、今また、天皇杯に勝った。

メキシコ・オリンピック(1968)得点王・釜本邦茂(山城高校→早大→ヤンマー)を生んだ京都は、彼以外にも柱谷兄弟をはじめ多くの優れたプレーヤーを育てている。すでにこのチームには、クラブユースの出身者もいる。京都という世界でも独自の文化を持ち続けている都市にサッカーが根を下ろし、世界のトップと戦えるチームをつくり出すことが、京都のサッカー人にとってのこれからの仕事となる。

 まずは京都の皆さんおめでとう。

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