FIFAオールスターでの中田英寿とカカ
京都サンガが優勝した天皇杯や国見と市立船橋が勝ち残った高校選手権といった国内の試合とともに海外のリーグがどしどしテレビで伝えられる。それにデフレ対策とか構造改革といった評論家たちが議論する番組も面白くて、ついついテレビの前にいる時間が長い。京都風の白ミソ、頭(かしら)イモと小イモ、大根の雑煮から七草ガユまでアっという間に過ぎてしまった。
たくさん年賀状を頂いた方々に、こちらからお送りしていない失礼もあった。まずはこの場でお礼とおわびを申し上げる。
FIFAオールスターでの中田英寿とカカ(ブラジル)
今日の話題はちょっと古いが12月18日に行なわれたレアル・マドリード対ワールドオールスター。レアル・マドリードのクラブ創設100周年記念行事として行なわれたこの試合で、日本の中田英寿が、すばらしいプレーを演じて世界のスターとしての存在感をみせたこと。
【FIFAの配慮】
FIFAのブラッター会長によれば世界各国の登録クラブ数は305,000あり、その頂点に立つレアル・マドリード(1902年3月6日創立)の記念行事にFIFAは協力して、記念チャリティー試合を公式カレンダーに組み入れるとともに、12月16、17日にFIFAの会議と2002FIFA優秀選手の表彰式をマドリードで行なうことにした。ひとつのクラブの祝賀行事にFIFAが花をそえたというわけだ。
【中田の意欲と巧技】
ワールド・オールスター・イレブンの先発は、
GK カバジェロ(アルゼンチン)
DF カフー(ブラジル)、マルディーニ(イタリア)、マルケス(メキシコ)、リザラズ(フランス)
MF 中田、リバウド(ブラジル)、バラック(ドイツ)、バラハ(スペイン)
FW クローゼ(ドイツ)、Rバッジョ(イタリア)
相手のレアルは、
GK カシジャス
DF イバン・エルゲラ、ラウル・ブラボ、ミニャンブレス、パボン
MF ジダン、フィーゴ、F・コンセイソン、グティ
FW ラウル、ロナウド
こういうエキシビジョン試合は激しいプレッシングが少ないのが普通で、そのため、各選手のボールテクニックが発揮されやすいのだが、レアルの方は連戦の疲れで彼らの誇るスター群の攻撃陣の動きが鈍く、それにロベルト・カルロスの欠場の影響が出ていたのに対して、オールスターの方は、ボールを動かして前半に3ゴールを奪ってしまった。
その1点目は、左サイドに開いたバッジョがノーマークでキープし、クローゼの走りこみにあわせてピタリと合わせるクロスを送り、クローゼが決めたが、そのバッジョへ右サイドから長いパスを送ったのが中田。彼の読みと展開力で、ボールを受けたバッジョには充分な余裕があり、相手のDFラインを牽制しつつ、クローゼの飛び出しを待って、それ合わせる得意のピンポイント・パスを送ることができた。
中田はこの日に2度シュートをした。1本目はドリブルから、2本目はダイレクトで、クローゼがヘッドで落としたのに走りこんで蹴ったもの。2本とも左で、1本目は弱く2本目はリキんで、叩きつけ方が悪かった。こういう試合で、右サイドの位置から正面へあらわれてシュートをしようというところに彼の意欲があり、そしてまた、走りこんでみる中田にクローゼがヘッドで合わせて落とすところに彼の存在感があったといえる。
FIFAオールスターは、各国から選ばれた24人をすべて登場させたために、中田をはじめとするスターティングライン・アップは後半はがらりと変わり、レアルは元気な若手を投入して後半に3ゴールをあげて3−3の引き分けとなった。サッカーで走ることの大切さをみせつけた結果だが、前半にオールスターの2点目を決めたカカのドリブルシュートが私には驚きだった。
やや左よりから中へドリブルで持ちこんで、3人の相手をかわしつつ、コースがあいた瞬間に右足のインサイドで右下すみへ蹴った — その右足の小さなバックスイングとはやさ、ボールのコースのコントロールに、ブラジルには、ロナウドと同じように、小さな、早い振りのシュートのできるFWがあらわれるのだ — と感嘆した。
【1968年 FIFAオールスターと釜本邦茂】
レアルのようなビッグクラブ、あるいはある国の協会創立を記念して、古くからFIFAオールスターや欧州オールスターが選抜され、祝賀記念マッチをしてきたなかで、日本の私たちの記憶にあるのは、1968年11月に行なわれたブラジル協会創立50周年記念試合。リオのマラカナン競技場でのこの試合の FIFAオールスターの監督はデットマル・クラーマーだった。当時FIFAの技術委員であり、コーチとして各国の指導にあたっていたクラーマーはこの年 10月24日、メキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本チームから釜本邦茂を選び、日本協会にも通知した。オリンピックが終わったあとメキシコから日本チームとともに、日本に帰るか、あるいはブラジルに飛んで、オールスターに合流するかの選択は釜本本人に任されたが、釜本はチームとともに帰国した。
このオールスターにはベッケンバウアーやオベラート(西ドイツ)、GKヤシン(ソ連)、マズルケビッチ(ウルグアイ)、DFのペルフーモ(アルゼンチン)、FWではハンガリーのフロリアン・アルバート、ユーゴのジャイッチ、スペインのアマンシオといったそうそうたるメンバーがいた。もちろん相手のブラジルには王様ペレもいた。もし出場しておれば、メキシコ・オリンピック得点王、24歳の伸び盛りの彼のサッカー人生は大きく変わったかも知れない。
しかし当時はこのFIFAオールスターに出場することがどれほどのことか、彼の周辺も彼自身もまだ理解していなかったし、9月12日に検見川に集結してからの3位決定戦までの40余日の緊張のあと、疲れて早く帰りたい気分でいたのだった。
このブラジル対FIFAオールスターはなかなかの好ゲームで2-1でブラジル代表が勝ったが、あとでヤシンがクラーマーに「カマモトが来ていたら勝っただろうに」といったという。
【12年後にバルセロナでオールスターに】
1980年のヨーロッパ選手権を取材していたとき、イレブン誌の手塚編集長が、ユーゴ人の記者でプロモーターである人物から「12月のバルセロナFCの創立80周年記念試合にバルサの相手となるユニセフ世界選抜に日本からスター選手を送ってほしい」という話を聞いた — と私に相談してきた。ドイツにいる奥寺選手よりも、日本から送ってくれる方がいいのだということなので、それならば釜本邦茂だと答えておいた。計画が進むことになって長沼健理事長に話すと、ユニセフから公式文書をもらえば、日本協会としては異存はないとのことだったので、その手配をし、ヤンマーの山岡浩二郎総監督の承諾を得て、彼の参加が決まった。ユニセフ・オールスターの監督は80年欧州選手権優勝の西ドイツを率いたユップ・デアバル。1968年冬に釜本がドイツへ留学したときに直接コーチしてくれたデアバルは、釜本が12年後もまだプレーし、その年ヤンマーの日本リーグ優勝に貢献したことを知っていた。
24歳の働き盛りのプレーにくらべてスピードは衰えていた釜本だが、後半に出場し、クライフ(オランダ)、プラティニ(フランス)、ボンホフ(ドイツ)、キナリア(イタリア→アメリカ)などとともにプレーをし、彼にとっての何よりの勲章となった。
【中田につづくものは・・・】
中田英寿はすでに1997年12月に98年フランスワールドカップの組み合わせ抽選会の前にマルセイユで行なわれた世界オールスター対欧州オールスター戦に出場し、堂々たるプレーをみせた。その後2度、こうした催しに出場していて、今度4回目だが、いよいよ彼は、世界のオールスターに欠かせぬ顔となってきた。
釜本時代と違って、いまや世界に開かれた日本から、中田英寿につづいて世界の顔になってゆくのは・・・
日本サッカーにはユメ多い21世紀となった。
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