« 続・ジャマイカ戦:海外組4人のキック | トップページ | 「黄金の4人」とテレ・サンターナ監督 »

監督ジーコの選手時代 - 万能プレーヤー

2002/10/24(木)

監督ジーコの選手時代 No.1

ZICO 監督ジーコを語るためには、まず彼の選手時代を眺めたい。

Tphoto780607zico_11953 年3月3日生まれ、サッカー一家の6人兄弟の末っ子で、もちろんブラジルの例にもれず、長姉はともかく4人の兄たちは、みな一度は選手をめざしたサッカー一家。三男のエドアルド(通称エドゥー)はブラジル代表にもなり、鹿島アントラーズの監督をもつとめている。そうした兄たちの影響で早くからボールになじんで、14歳でリオの人気クラブ、フラメンゴへはいり、18歳で一軍にデビューした。そのころすでにボールテクニックやドリブルでは先輩たちを驚かせたが、体格が貧弱で、また力がなかったため栄養摂取とフィジカルトレーニングによって172センチの小柄ながら強い体に生まれ変わり、23歳ごろからレギュラーとなり、1976年2月にはブラジル代表でデビューした。

 

私が彼のプレーを初めてみたのは1978年アルゼンチン・ワールドカップのブラジル対スウェーデン、16チームの最後の大会の1次リーグ第3組、ジーコにも初のワールドカップだった。当時、25歳“白いペレ”のニックネームは、ブラジル・ファンの彼への期待の深さが知れるのだが、両中のマルデルプラタの芝生は、根付きが悪くて、踏み込むとペロリとはがれること再三、ジーコのステップやフェイントは減殺され、チームの調子もいまひといきで1-1で引き分けた。

Jリーグのスタート直後、私がマッチコミッサリーで鹿島の試合に立ち合ったとき、ジーコに「マルデルプラタで芝生がはがれてふんばれないので、怒っていたネ」といったら、「あれを見ていたの、アンビリーバブル」と笑っていた。

この試合でジーコは、ヘディングでゴールを割るのだが、右CKをネリーニョが蹴った瞬間に主審がタイムアップの笛を吹いてしまい、ゴールを認められなかったひと幕もあった。ツイていなかったワールドカップの初陣は尾を引いて、78年大会は彼にも、ブラジルのサポーターにも不本意な大会となった。

それはひとつには39歳の気鋭のコウチーニョ監督が、ヨーロッパ流サッカーを選手たちに押しつけたからでもあった。私などから見れば、まことに羨むばかりの才能をそろえながら、守りを重視したため、ブラジル選手の
持つ特色が出ないままだったし、ジーコも第2ラウンドからは交代要員にまわされていた。

ジーコがワールドカップで活躍するのは、この4年後、1982年だが、70年大会のペレのチームの優勝のあと、74(4位)の守備的チーム、78年(3位)のイマジネーションのない力づくサッカーへの非難の嵐のなかで、1980年にテレ・サンターナがブラジル代表の監督になったことで、再び「ブラジルらしいチーム」が生まれ、ジーコはそのキープレーヤーとなる。

<つづく>

(写真はジーコ/撮影:冨越正秀)

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 監督ジーコの選手時代 - 万能プレーヤー:

コメント

コメントを書く