ZICO テレ・サンターナ監督(1931年7月26日生まれ)は、1992、93年の第13、14回トヨタカップで2連勝 — それもFCバルセロナとACミランを破って— した監督でもあり、日本のファンにはお馴染み、彼について紹介したいエピソードもあるが、ここでは、74年、78年の守備的なブラジル代表を、再びペレ時代の魅力的で、攻撃的なチームに再生したというだけに止めることにしよう。彼は80年暮から81年2月にかけてのモンテビデオでのムンディアリート(小ワールドカップ)で、そのオリジナルをみせ、81年5月には、故障回復したジーコを軸とする、セレソンの欧州転戦で世界にブラジルの復活を証明した。ウエンブリーでイングランド(1-0)、パリでプランス(3-0)シュツッツガルトで欧州チャンピオン西ドイツ(2-1)を破ってのアウェーでの3 戦3勝は、スコアの上だけでなく、彼らの技巧と自由奔放な動きは“まるでグローブトロッターズのバスケットボールのようだ”といわれ、1年後のワールドカップの優勝大本命と見られた。
この年はジーコの最も充実した時期で、彼とフラメンゴは初めてリベルタドーレス杯を制し、12月の第2回トヨタカップではイングランドのリバプールを 3-0で撃破して、クラブの世界一となった。ジーコは得点はなかったが、ゴールすべてにからみ(FKと2本のスルーパス)最優秀選手賞をうけた。
82年のスペイン、初の24チームに拡大されたワールドカップで、ジーコとブラジルは第1ラウンドの第6組リーグではソ連(2-0)、スコットランド(4-1)、ニュージーランド(4-0)を退け、第2ラウンドに進んだ。このC組リーグの初戦でアルゼンチンに快勝(3-1)し、最終戦でイタリアと対戦。引き分ければ準決勝進出が決まるところを、幸運を背負うパオロ・ロッシにハットトリックされて2-3で敗れてしまった。大会でみせた攻撃展開のひとつひとつは、いまも語りつがれる見事なもので、中盤を構成したトニーニョ・セレーゾ、ファルカン、ジーコ、ソクラテスは「黄金の4人」と賞賛されたが、前年のチームからレイナルドが抜けて、FWの威力が落ちていたのが惜しい。
4年後の86年大会はジーコは故障の回復をはかりながら、チームの第3戦から少しずつ出場、歴史に残るプラティニのフランスとの準々決勝には後半27分からミューレルに代わって登場し、延長も闘い抜いてPK戦で敗退した。
体調不満足の状態ながら、ピッチに登場すれば、決定的なパスを送る能力には誰もが驚嘆した。3度の大会でタイトルはとれなかったが、ワールドカップの歴史のなかで彼の名は消えることはない。
その彼で忘れていけないのはプレーメイクとともにゴールを奪う能力。FKにみられるシュートのうまさで、クラブでも代表でも、ずば抜けた得点数はその証(あかし)であり、その優れた得点感覚が、特有の攻撃の組み立て、決定的なパスを生み出したといえる。
◆ブラジル時代 1046試合 729得点
◆ブラジル代表 89試合 66得点
(写真はジーコ/撮影:富越正秀)
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