トップページ | 2002年11月 »

2002年10月

「黄金の4人」とテレ・サンターナ監督

2002/10/25(金)

Tphoto820623zico_1 ZICO テレ・サンターナ監督(1931年7月26日生まれ)は、1992、93年の第13、14回トヨタカップで2連勝 — それもFCバルセロナとACミランを破って— した監督でもあり、日本のファンにはお馴染み、彼について紹介したいエピソードもあるが、ここでは、74年、78年の守備的なブラジル代表を、再びペレ時代の魅力的で、攻撃的なチームに再生したというだけに止めることにしよう。彼は80年暮から81年2月にかけてのモンテビデオでのムンディアリート(小ワールドカップ)で、そのオリジナルをみせ、81年5月には、故障回復したジーコを軸とする、セレソンの欧州転戦で世界にブラジルの復活を証明した。ウエンブリーでイングランド(1-0)、パリでプランス(3-0)シュツッツガルトで欧州チャンピオン西ドイツ(2-1)を破ってのアウェーでの3 戦3勝は、スコアの上だけでなく、彼らの技巧と自由奔放な動きは“まるでグローブトロッターズのバスケットボールのようだ”といわれ、1年後のワールドカップの優勝大本命と見られた。

この年はジーコの最も充実した時期で、彼とフラメンゴは初めてリベルタドーレス杯を制し、12月の第2回トヨタカップではイングランドのリバプールを 3-0で撃破して、クラブの世界一となった。ジーコは得点はなかったが、ゴールすべてにからみ(FKと2本のスルーパス)最優秀選手賞をうけた。

82年のスペイン、初の24チームに拡大されたワールドカップで、ジーコとブラジルは第1ラウンドの第6組リーグではソ連(2-0)、スコットランド(4-1)、ニュージーランド(4-0)を退け、第2ラウンドに進んだ。このC組リーグの初戦でアルゼンチンに快勝(3-1)し、最終戦でイタリアと対戦。引き分ければ準決勝進出が決まるところを、幸運を背負うパオロ・ロッシにハットトリックされて2-3で敗れてしまった。大会でみせた攻撃展開のひとつひとつは、いまも語りつがれる見事なもので、中盤を構成したトニーニョ・セレーゾ、ファルカン、ジーコ、ソクラテスは「黄金の4人」と賞賛されたが、前年のチームからレイナルドが抜けて、FWの威力が落ちていたのが惜しい。

4年後の86年大会はジーコは故障の回復をはかりながら、チームの第3戦から少しずつ出場、歴史に残るプラティニのフランスとの準々決勝には後半27分からミューレルに代わって登場し、延長も闘い抜いてPK戦で敗退した。

体調不満足の状態ながら、ピッチに登場すれば、決定的なパスを送る能力には誰もが驚嘆した。3度の大会でタイトルはとれなかったが、ワールドカップの歴史のなかで彼の名は消えることはない。

その彼で忘れていけないのはプレーメイクとともにゴールを奪う能力。FKにみられるシュートのうまさで、クラブでも代表でも、ずば抜けた得点数はその証(あかし)であり、その優れた得点感覚が、特有の攻撃の組み立て、決定的なパスを生み出したといえる。

 ◆ブラジル時代 1046試合 729得点
 ◆ブラジル代表  89試合  66得点

(写真はジーコ/撮影:富越正秀)

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


監督ジーコの選手時代 - 万能プレーヤー

2002/10/24(木)

監督ジーコの選手時代 No.1

ZICO 監督ジーコを語るためには、まず彼の選手時代を眺めたい。

Tphoto780607zico_11953 年3月3日生まれ、サッカー一家の6人兄弟の末っ子で、もちろんブラジルの例にもれず、長姉はともかく4人の兄たちは、みな一度は選手をめざしたサッカー一家。三男のエドアルド(通称エドゥー)はブラジル代表にもなり、鹿島アントラーズの監督をもつとめている。そうした兄たちの影響で早くからボールになじんで、14歳でリオの人気クラブ、フラメンゴへはいり、18歳で一軍にデビューした。そのころすでにボールテクニックやドリブルでは先輩たちを驚かせたが、体格が貧弱で、また力がなかったため栄養摂取とフィジカルトレーニングによって172センチの小柄ながら強い体に生まれ変わり、23歳ごろからレギュラーとなり、1976年2月にはブラジル代表でデビューした。

 

私が彼のプレーを初めてみたのは1978年アルゼンチン・ワールドカップのブラジル対スウェーデン、16チームの最後の大会の1次リーグ第3組、ジーコにも初のワールドカップだった。当時、25歳“白いペレ”のニックネームは、ブラジル・ファンの彼への期待の深さが知れるのだが、両中のマルデルプラタの芝生は、根付きが悪くて、踏み込むとペロリとはがれること再三、ジーコのステップやフェイントは減殺され、チームの調子もいまひといきで1-1で引き分けた。

Jリーグのスタート直後、私がマッチコミッサリーで鹿島の試合に立ち合ったとき、ジーコに「マルデルプラタで芝生がはがれてふんばれないので、怒っていたネ」といったら、「あれを見ていたの、アンビリーバブル」と笑っていた。

この試合でジーコは、ヘディングでゴールを割るのだが、右CKをネリーニョが蹴った瞬間に主審がタイムアップの笛を吹いてしまい、ゴールを認められなかったひと幕もあった。ツイていなかったワールドカップの初陣は尾を引いて、78年大会は彼にも、ブラジルのサポーターにも不本意な大会となった。

それはひとつには39歳の気鋭のコウチーニョ監督が、ヨーロッパ流サッカーを選手たちに押しつけたからでもあった。私などから見れば、まことに羨むばかりの才能をそろえながら、守りを重視したため、ブラジル選手の
持つ特色が出ないままだったし、ジーコも第2ラウンドからは交代要員にまわされていた。

ジーコがワールドカップで活躍するのは、この4年後、1982年だが、70年大会のペレのチームの優勝のあと、74(4位)の守備的チーム、78年(3位)のイマジネーションのない力づくサッカーへの非難の嵐のなかで、1980年にテレ・サンターナがブラジル代表の監督になったことで、再び「ブラジルらしいチーム」が生まれ、ジーコはそのキープレーヤーとなる。

<つづく>

(写真はジーコ/撮影:冨越正秀)

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


続・ジャマイカ戦:海外組4人のキック

2002/10/19(土)

 【俊輔の初めての里帰り】

Tphotonakata021016_1_2 2002ワールドカップの代表からはずれ、今度ジーコによって招集された中村俊輔には横浜だけでなく日本中のファンが特別な目で今回のプレーを見つめていたハズだ。

その期待の大きさからいえば、彼のプレーに不満の残る人もあったろう。珍しくトラッピングミスもあったし、シュートも失敗している。それは、そうした期待を背にした、自らの気負いもあっただろうし、初経験の“里帰り試合”のコンディション維持の難しさもあっただろう。

しかし、独特の左足の長いパスや、大きくキックするとみせて短いスルーパスを鈴木に送ったプレー、あるいは、ちょっとした繋ぎのパスに彼らしい丁寧さも随所に見られて、4人揃えてみれば — というジーコのねらいは成功した。 

【高原、残念、少ないシュートチャンス】

実のところ、4人のプレーもさることながら、高原が、代表でどういうプレーをするかを楽しみにしていた。Jリーグの後期にはいってのプレーは素晴らしい。彼がゴール前の左外から内に走りこんで右足シュートでゴー
ルを決めた試合を見たとき、そのボールへ走りこんでシュートにはいる動作の早さと切れ味に、1968年春の釜本邦茂の電光石火のプレーを思い出した。この年、冬に西ドイツに留学し、デュアバル監督(後のドイツ代表監督)の指導をうけた釜本は、それまでと見違えるように早く巧みになり、秋のメキシコ・オリンピック得点王となったのだった。その高原を、パスの上手なMF陣がどのように生かせるのかを見たかったが、得点にからんだシーンは素晴らしかったが、高原自身のシュートチャンスが少なかったのは残念。

むしろ今回は鈴木の方にシュートチャンスがあった。

 

【キックの型を持つ者の成功】

セリエAで実績を重ねた中田(英)についで小野もフェイエノールトでポジションをつかみ、今期から中村がやはりセリエAのレッジーナで、稲本がプレミア・リーグのフラムでレギュラーとなって、少なくともシーズン初期は華々しく活躍が伝えられている。

彼ら4人は、それぞれ、体格も、個性もプレーのスタイルも違うが、基本的には、それぞれが、自分の型のキック、自分のキックの角度を持っていることに気づかれた人も多いと思う。体のバネや、骨格の強さ、といった点で必ずしもすぐれてはいない普通の日本の選手にとっては、その機敏さと、それを生かすボールテクニックがまず大切なのだが、技術のなかでも、ボールを確実に目標へ届けるキックの精度がなければ。チームメートの信頼を得ることはできない。そのキックの上達にはまず、本人のもっとも得意な形、もっとも得意な角度でのキックを作り上げること、そして、そこからさまざまなバリエーションが生まれることになる。

欧州で評価を受けている4人そろってのプレーを眺めながら、あらためて、サッカーの基本を思うことができたのは幸いだった。

次はジーコの選手時代と、いわゆる彼らの黄金のクアルテットについてです。

(写真は 中田英寿 日本 1-1 ジャマイカ 2002.10.16 東京/撮影:富越

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


ジーコと日本代表の第1戦

2002/10/18(金)

 中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一 — 25歳と24歳と2人の23歳の、年齢的にも、いよいよ花盛りを迎える4人による代表チームの中盤は、ほ ぼ期待どおりの楽しさだった。互いに近づいたとき、離れたとき、それぞれにアイディアがあり技術があった。もちろん欧州からの長旅のあとでもあり体調の万 全でもないものもいたし、ミスもあったが、ボールを止める、蹴るのテクニックが、この程度の高さにあれば、そして、それを基盤に対敵動作や周囲の目くばり が上達すれば、サッカーはこんなにも楽しいものであることを見せてくれた。

Tphotojapan021016_1
       

奪ったゴールは1点だけだったが、これ以外にも、みごとな展開を数回みせた。

       

得 点をふりかえると — 中田英の右外へのパスを相手に奪われ、その相手のドリブリを、中田と高原でからむところからはじまった。日本の2人を振り切った相 手を、ハーフラインあたりで、稲本がまずいって、これをかわそうとして、相手のボールが流れたところに小野が待ちかまえていた。

       

小 野は左足アウトで短く中田につなぐ、中田は、これをすぐ近くで前を(相手ゴールの方を)向いた高原にわたす。高原は一気にドリブルして、左に開く鈴木へで はなく、右にあがってきた小野にパスを送り、小野が左足のダイレクトシュートを決めたのだった。彼は中田にダイレクトパスを送ることすぐに稲本の前を右 オープンに走りあがっていた。

       

中村以外の3人と高原の絡んだこのゴールで、中田は小野から パスをうけ、ダイレクトで高原に短いパスを送ったことで局面を一気に変えたのはさすがだったが、小野が攻撃の発起からフィニッシュまでをやってのけ、それ も、左足アウトでのダイレクトの短いパスではじめておいて、フィニッシュを左インサイドで成功させたのだからすばらしい。

       

もともと小野伸二は右利きだが、ここのところ、左足もどんどん上手になり、ロングパスも出すようになっているが、不得意な足でのインサイドキックはなかなかむずかしいもの。このゴールは彼がすでに左で蹴ることを全く苦にしないレベルにあることを示したといえる。

       

“王様”ペレは、右でも左でもパスを出しシュートをしたが、小野は少なくとも蹴るという点ではペレに近づいている。

       

ちょっとおしゃべりが過ぎたので、このつづきは明日にでも・・・
       

                              

          (写真は日本 1-1 ジャマイカ 2002.10.16 東京/撮影:富越正秀)

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


21歳以下のチームの緩急自在の展開をみた

2002/10/14(月)

  この年代は、彼らより2歳年長の、小野、稲、中田(浩二)、小笠原、高原たちの花やかさにくらべて、国際大会での実践も低く、メディアから「谷間の世代」などと呼ばれることもあったが、山本昌邦監督とイレブンは堂々たる試合内容と成績で、その実力を示した。

     Tphotojapanu21_1_3

彼 らの試合を見て感じたのは、まず第一にFWの中山、大久保をはじめ、MFの松井、田中(隼)、森崎(和)、DFの三田、池田、阿部、青木たちの展開力が、 どんどん上手になっていったこと。これは、彼らの基礎的なテクニックがしっかりしているのと、若いうちからプロをめざし、いいサッカー環境で育ってきたこ とにあるのだと思う。サッカーの常識があり、ドリブルもパスもできるというプレーヤーが多いのが楽しみ。しかも、必要と思ったときは自分で突っかけてゆく (失敗も多かったが)という、これまでの日本代表とは違った面もみせたのが面白い。

       

苦 しい中国戦を制したつぎの準決勝のタイとの試合(3-0)の3点目は、右から左へ、左から右へとパスをつないで、攻めこんでおいて、いったん後方にもど し、相手の守備ラインが突っ立ってしまったウラへ、田中(隼)がとび出し、さらに彼を追いこしたもう一人の田中がうけて、右からクロスを出して中山が決め たもの。パスをつないで攻めにゆくとみせて、攻め急ぎしないで、ボールを後方へもどし、森崎が、そこから、さらにDFラインまでボールを後追させたため に、相手のDFの集中力が薄れたときに、田中(隼)がそのウラへ見事な飛び出しをみせたのだった。

       

2-0というリードに余裕があったとしても、21歳以下の選手ばかりで、こうした緩と急の大きな変化をつける攻めができるようになったところがすばらしい。

       

決勝でイランに敗れたが、イランと日本の因縁については別の項で・・・。

        写真はU-21日本代表 2002アジア大会決勝戦イラン2-1日本         2002.10.13 釜山/撮影:富越正秀)

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


片言隻句創刊にあたり

2002/10/14(月)

 日本にとっての長い間のユメであった2002年ワールドカップ開催が終わって3ヶ月、サッカー界の歩みは、休むことなく進んでいます。
 ヨーロッパでは、すでにビッグファイブをはじめとする各国リーグが序盤から中盤へはいろうとし、チャンピオンズ・リーグはグループリーグがたけなわです。
 日本代表もまたジーコ監督のもとに、新しいスタートを切り、その第1戦が10月16日、ジャマイカを迎えてのキリンチャレンジ・カップ2002として国立競技場で行なわれます。J1の磐田を追う争いは面白く、J2での昇格争いは終盤になってますます緊迫しています。
 まことに、サッカー界の展開は驚くほど変化に富み多種多様ですが、こうしたサッカーの動きや試合や個々のプレーについて、私が"気ままに"とりあげて、おしゃべりしてみたい。
 そんなことから、賀川浩の「片言隻句」(へんげんせっく)をはじめたいと考えました。漢字で固くみえる題ですが、つまりは「ひとこと」です。
 雑誌などでの連載と違って、あちこちへ話しはとぶことになりそうですが、あとで集めて分別すれば、あるいは、共通のサムシングがあるかも知れません。も ちろん現在週刊サッカーマガジンに連載(隔週)の「2002年ワールドカップの旅」と、この随筆ともいえる片言隻句は、兄弟のようなもので、両方を見てい ただければ、まことにうれしいことです。
 そうそう、この欄をはじめるにあたってお願いがあります。サッカーにかかわることなら、なんでも質問をお寄せください。
 つい最近もある編集者から「サッカーはなぜ11人同士でするのですか」という問いがありました。質問を頂くことで、私の頭にあるものを描き出せれば有難い。もし解けぬ問題であれば、もっと詳しい人に聞いてみます。

 片言隻句は、いわばサロンでの気さくなおしゃべり会というところです。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


トップページ | 2002年11月 »