新年のご挨拶

2017/01/13(金)

新しい2017年も12日がすぎました。ブログを通しての新年のご挨拶が遅くなり、誠に申し訳ありません。遅まきながら、皆様に「新年おめでとう」を申し上げ、ご無沙汰のお詫びとさせていただきたいと思います。

昨年、12月29日の誕生日で私は満92歳となりました。日本の昔からの習慣の数え歳でゆくと、93歳になるのでしょうか。1924年生まれで、1944年から1年半は陸軍にいた私の仲間の多くは、自分の寿命は長くて23~24歳と考えていました。長い人生設計などは考えも及びませんでした。それが人生50年どころか、その倍近くまで年齢を重ねてきたのです。誠に驚きというほかはありません。

神戸市の雲中小学校の5年生のころから、フットボール、つまりサッカーに興味を持つようになったおかげで、神戸一中(神戸高校)でもサッカーをし、大学の予科でもボールを蹴り、戦争が終わって復員した後もサッカーを楽しみました。つい先ほど、セルジオ越後のフェイントについて神戸市立中央図書館の「神戸賀川サッカー文庫」の仲間と話し合った際、イスから立ち上がって自分でセルジオのフェイントの型のひとつをやってみせたら、若い(といっても60歳台ですが)仲間たちが驚いたのに、こちらの方が驚きました。

12月にはクラブワールドカップの決勝で、日本の鹿島アントラーズが世界のレアル・マドリードと延長まで戦いました。元旦の天皇杯決勝は、大阪の吹田スタジアムでの開催で、延長の熱戦の末、鹿島アントラーズが川崎フロンターレを2-1で振り切り5度目の天皇杯獲得の栄誉に輝きました。

1月10日には、FIFAが2026年のワールドカップの出場枠を現行の32から48チームに拡大することを発表しました。いろいろな観点から議論もありますが、16チームのときに出場できなかった日本が32チームになってから本大会に5回連続出場し、そのワールドカップ出場によって、日本のサッカーが大きく発展したという事実もあります。今度の拡大で、またいくつかの国のサッカーが、今の日本のようになるかも、と考えるのはとても楽しいことです。

昨年11月下旬に、芦屋から居を移し、近鉄沿線の柏原(かしわら)にいます。神戸一中時代に、グラウンドから大阪湾を隔ててはるかに生駒を眺めていた記憶がありますが、その近くに来ると、高度600メートルに満たない生駒の山々の立派な姿に感服しています。今年、開港150年の神戸のような新しい街とはちがって、この付近は古代史に出てくる旧跡のとても多いところです。

新年のごあいさつの遅れをお詫びしつつ、今年は片言隻句で、もっと多く皆様にお目にかかりたいとの願いを申し上げ、今日はここまでとさせていただきます。

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FIFAクラブワールドカップ ジャパン 2016を見て

2016/12/21(水)

実力が下とみられていた鹿島の大健闘でFIFAクラブワールドカップ決勝のなかでも特筆ものの面白い試合となった。私たちにとって強敵を追い詰めた鹿島に日本サッカーの伝統を見たこと、そして、それでもなお、世界の頂点には及ばないことを知った。すばらしい120分だった。

前半5分まで中盤でボールを奪って鹿島が攻めに出ていた。6分ごろからレアルもボールをキープし、パスをつなぐようになり、モドリッチのシュートから1-0とした。ペナルティエリア外へ鹿島がはじき返した。いわゆるこぼれ球をモドリッチがシュートし、GK曽ヶ端が体を右に伸ばしてゴロのボールを防いだが、つめていたベンゼマが曽ヶ端のはじいたボールをサイドキックできめた。GKの防いだリバウンドに対して、2人がつめていたのはさすがというべきだろう。

1-0、レアルに先制されれば、たいていの相手チームは気落ちしてしまうものだが、鹿島の意欲は変わらなかった。ボールの奪い合いの場面でもひるむことなく戦い、1人の相手に複数が対応(動きの量が必要)して攻撃を続けようとした。攻められてもゴールを奪われない辛抱強い守りが44分の同点ゴールで報われた。左サイドからの攻め込みを柴崎が決めた。やさしい態勢ではなかったが小さく浮いたボールをしっかりシュートした。1-1.このシュート場面をテレビのスローで見た私たちは、こういう場面での鹿島と日本の攻撃力アップを知った。

後半7分に鹿島が2-1とした。攻め込んでCKを取り、その相手エリアからのボールを攻めにつなぎ柴崎が浮いたボールを競り合って取り、左足シュートで決めた。レアルの守りの中央部はこのクラスのチームとしては、特に強力と言うわけではない。しかし欧州のトップチームのCDFと競り合ってゴールしたのだから…

せっかくのリードは後半16分のPKで同点にされてしまう。PKを蹴る前、ボールをプレースするときにテレビのアップでロナウドの“本気”の表情が映し出された。彼の速いゴロの左下へのシュートはGK曽ヶ端が方向を読んでも取れないものだった。2-2、レアル側に「さあいくぞ」という気配が満ち、攻撃が続く。しかし、曽ヶ端のファインセーフを含む鹿島の好守は失点を許さず延長に入る。

試合の始めのうちしばらく、ドリブルやトラッピングで珍しくミスのあったロナウドが、前線に残るようになって、本来の強さが生き始めていた。その威圧感が鹿島ディフェンダーを後退させる形となりレアルは余裕を持って攻める。それを食い止め反撃する鹿島の闘志もまた素晴らしかったが、延長前半8分ついにレアルに3点目が生まれた。

パスを受けた時にマークをかわしてシュートの形に持って行くロナウドの不思議な能力が発揮された。ビッグゲームのテレビで何度も見せられた、最前線でボールを受けシュートを決めるロナウドの形がでるようになればレアルの試合となる。延長前半の終わりごろ右から攻めたレアルは鹿島のクリアを拾ってロナウドへ。こういう形勢の時の彼にはマークがいてもいなくても同じように見える。左足シュートで4-2となった。

FIFAクラブワールドカップで私たちはこれまでも日本チームの健闘を見てきた。そして日本サッカーの進歩も感じてきた。今度のFIFAクラブワールドカップで私たちは鹿島の戦いによって世界のトップへ勝負を挑むことが不可能でないところまで来ているのを知った。と同時に、力の上では、まだ一段のレベルアップも必要だと改めて知った。

私にはこの試合でレアルがより身近になったのはうれしいことだ。一昨年のFIFA会長賞受賞の時、私のとなりの席にいたロナウドがその日、彼を囲む記者団の多さでその人気の高さをあらためて知ったのだった。今回のロナウドを見て、私たちはメッシやロナウドのようなプレーヤーと同じ時期に生きたことを誠に幸運なことと思った。

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【お知らせ】NAVERに記事が掲載されました

2016/12/06(火)

先日、インタビューを受けた韓国メディアのサイトに、記事が掲載されました。

http://sports.news.naver.com/wfootball/news/read.nhn?oid=436&aid=0000023708

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引っ越しのご報告

2016/12/04(日)

芦屋の朝日ケ丘から、大阪の柏原というところに引っ越しました。

ここではこれまでと違い、規則正しい生活で自分の健康維持、老化防止につとめるつもりです。

つきましては、今後の連絡は私の携帯か、株式会社シックス(0797-78-6123)までお願いいたします。転居の際の皆様への通知や連絡が遅れて、誠に申し訳ありませんでしたが、よろしくお願いいたします。

12月29日で92歳になりますが、書く意欲も、サッカーをはじめスポーツへの興味はまだまだ衰えていません。大倉山の神戸市立中央図書館の神戸賀川サッカー文庫には、とりあえず火・土の週2回顔を出し、部屋の片隅にいて、来訪者のお相手をさせていただきます。いずれはその回数も増やせれば、とても幸いなことですが、もちろんサッカーの試合の取材でスタジアムへも出かけるつもりです。

FIFA会長賞を頂戴した以上、もう少しサッカーの勉強をしたいと念じています。よろしくお願いします。

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新しい攻撃メンバーを軸に乗り切ったサウジとのホーム戦

2016/11/16(水)

――2-1の勝利。まずはお祝いですね。

賀川:ワールドカップのアジア最終予選Bグループの次の試合は来年3月ですから、それまで日本の多くのファンは、明るい気分で過ごせますね。

――監督は新しい攻撃メンバーを登場させました。これまでの、本田、岡崎、香川でなく、大迫をトップに、第2列は右から久保、清武、原口をもってきました

賀川:長谷部キャプテンと山口蛍が守備的MF、DFは右が酒井宏樹、左が長友、中央が吉田と森重、GKが西川でした。前半早々から攻め続け、左右から攻撃を仕掛けました。シュートも8本ありました。

――大迫がポストプレーでボールをおさめたのもよかった

賀川:これまでのレギュラー岡崎は、イングランドのプレミアリーグ優勝チーム、レスターの2トップのひとりですが、ハリルホジッチ監督は大迫を持ってきました。その大迫がボールを受けられたので、攻撃展開がスムースにゆきました。

――攻めて、シュートチャンスもあったが、ゴールはPKからでした

賀川:攻め込んだ後、いわゆるこぼれ球を清武がシュートし、サウジアラビアの選手が体でこのボールを止めたとき、レフェリーは笛を吹いた。スローで見ると、胸で止めたようだったが、見る角度によって、腕で止めたように見えたのでしょう。私はテレビの前で、シュートが飛んで、サウジアラビア選手の体に当たったとき、「PKだ」と叫びましたからね。

――サウジアラビア側は抗議したが、判定がかわることはなく、清武がPKを右足で決めました

賀川:清武はボールをプレースしてから、一度も蹴る方向を見ないで、右足でシュートしました。ゴールキーパーが(清武から見て)先に右へ動いたので、その逆の左ポスト際にサイドキックで決めたのです。試合中のPKもキッカーにとっては大きな仕事ですが、清武は落ち着いているように見えました。こういうところにも、今の彼の充実ぶりが見えましたね。

――大迫にシュートチャンスがありました

賀川:中央でDFを右へかわしてシュートした場面があった。こういうチャンスを決めると、自分自身にも大きなプラスになるはずでした。惜しい場面もあったが、とにかく1-0でリードしてハーフタイムに入ったので、埼玉スタジアムの58000人も、テレビの前の日本中のファンもほっとしたことでしょう。

――後半のスタートからハリルホジッチ監督は、久保に代えて本田を投入しました。

賀川:本田はイタリアで試合に出る機会が少なくなって、動きが悪いということだったが、彼のように止まった形でゴールを受けることのできる選手は日本代表には貴重だと思っています。早々に彼の強いシュートがありました。

――19分には、清武に代えて香川が入りました

賀川:動きの量が多くて、パスもつながり、相手を圧迫して攻め続けていたが、ゴールは奪えない—ということで、香川、本田たち、これまでの攻撃陣を持ってきたのかな。

――後半35分に長友のグラウンダーのクロスから原口が決めました

賀川:長友からのボールを、香川がヒールに当てて、原口に渡し、原口がノーマークシュートを決めました。長友が左に食い込んできてのパスのタイミングや、コースがうまく合いました。このあたりは、彼ら「古い」代表の呼吸かもしれませんね。

――試合後の監督談話では、古株のプレーヤーに対して厳しかったようですが、、

賀川:2点目を取ったときに、これで一安心と思ったが、同時に2-0になったことで失点の懸念も出てきました。試合の終盤に相手が攻めへの意欲を高め、45分に1-2とされるのです。

――PKの1ゴールの後、2点目を取っていてよかった、という気がしました。

賀川:まあ、2点目を取れたという安心感が、1点を失うことになったのかどうか、このあたりにも今の日本代表の問題があるのでしょう。

――ともかく、勝ったことは大きい

賀川:これで、最終予選B組のなかで、上位への望みをつなぎました。日本選手、日本代表の戦いの第一は、全員のチームワークですが、外国のチームに属している選手の多い今の代表には、チームワークを高める期間も必要でしょう。最終予選でそれぞれの試合で結果を出しながら、各個人の能力が高まり、代表チーム全体の底上げが少しずつでも進んでいるのは、うれしいことです。

――選手一人ひとりにも収穫があったでしょう。まずは、よかった、というのが実感です

賀川:もちろん日本代表の進歩という点では、まだまだ個人力についても、チームプレーについても、望みたいことはたくさんあります。

――そういう点については、今後、折に触れて語ることにしましょう

賀川:まずは、選手たち、監督、コーチたち、おめでとう。次に向かっての選手の皆さんの進歩を祈ります。

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【お知らせ】シンポジウム「日本サッカーのルーツを語ろう!」

2016/11/15(火)

賀川浩も設立当初からの会員である、特定非営利活動法人 サロン2002が毎年開催している公開シンポジウムが12月17日に開催され、そのなかで演者として講演します。

ぜひ多くの皆様にご参加いただければと思います。

特定非営利活動法人 サロン2002 公 開 シンポジウム2016
日本サッカーのルーツを語ろう!
-東京高等師範学校の足跡を中心にー

主 催 : 特定非営利活動法人サロン 2002

後 援 : 筑波大学蹴球部同窓会茗友サッカークラブ、※横浜カントリーアンドアスレティッククラブ、※(公財)日本サッカー協会、※日本サッカーミュージアム ほか
※は申請中

協 力 : 日本サッカー史研究会(予定) ほか

日 時 : 2016(平成 28)年 12 月 17 日(土) 14:00~17:00 (受付 13:30~)

会 場 : 桐陰会館
〒112-0012 東京都文京区大塚1-9-1(筑波大学附属中学・高校 敷地内)
東京メトロ 有楽町線 護国寺駅 5 番出口より徒歩 8 分
東京メトロ 丸ノ内線 茗荷谷駅 より徒歩 10 分

演 者 : 真田 久(筑波大学体育専門学群長/筑波大学オリンピック教育プラットフォーム事務局長)
賀川 浩(スポーツジャーナリスト/2010 年第 7 回日本サッカー殿堂入り)
牛木 素吉郎(スポーツジャーナリスト/2011 年第 8 回日本サッカー殿堂入り)
※中塚 義実(NPO 法人サロン 2002 理事長/茗友 SC 理事長/筑波大学附属高校)
※コーディネーターを兼ねる

参加申込 : サロン2002公開シンポジウム参加申込フォームからお申し込みください
https://goo.gl/forms/PMp1sbAnHAzZUc5Y2

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金容植氏についての記事にコメントが掲載されました

2016/11/09(水)

韓国のメディアの金容植氏についての記事のなかで、賀川浩のコメントが掲載されました。https://storyfunding.daum.net/episode/14306

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全員が最後まで戦いアウェーでオーストラリアと引き分け

2016/10/12(水)

アジア最終予選(Road to Russia)
2016年10月11日 オーストラリア/ドックランズスタジアム
オーストラリア 1(0-1)1 日本

――前半5分に日本は原口のゴールでリードした

賀川:ボールを奪ってから原口のシュートに到る過程が見事でしたね。

――日本陣内の左サイドで相手のパスを取った原口が内側の長谷部に渡し、長谷部が前方の本田にパスした。本田は左側を走り上がる原口の前方のスペースへパスを送り、原口はエリア内でGKラインと1対1になって、その右側(GKの左手側)を抜くシュートを決めた。

賀川:本田からのパスのタイミング、ボールの方向ともに申し分なく、原口は落ち着いて相手GKの構えを見て、シュートの方向を決めるところがテレビのリピートの映像でよく見えていた。

――見事な攻めとゴールでした

賀川:本田を中央のCFの位置に配した監督さんの狙いが当たった。

――この日の攻撃陣は左に原口、トップに本田、右に小林、そしてトップ下に香川を置き、山口と長谷部が支援する形となり、左DFは槙野、右は酒井高、守りの中央部は森重と吉田という不動の2人だった。

賀川:本田は日本のFWのなかでは体の芯が強く、彼のところでボールを止めることができる。もちろん得点力もある。これまで右サイドに配していたのを、この試合では中央へ持ってきた。

――それが最初のゴールにも生きたわけですね

賀川:1-0となったあと日本の攻撃回数は少し増えたが、全体としてはオーストラリアの方がボールを持つ時間が多かった。

――彼らも結構つないできました

賀川:オーストラリアは、今やいきなりロングボールを日本のゴール前へ送ってくるというのでなく、中盤でのボールの奪い合いからボールのキープを高め、左右からのクロスを送る、ときには中央突破もというやり方だった。

――ボールの奪い合いは互いに負けないぞという意志が見えていました。日本にもチャンスはあったのだが

賀川:26分から28分ごろに左からの攻めでチャンスがあった。本田のシュートがGKライアンの正面へ飛んだのもあった。サイドから崩しにかかって、もう一息だったのだが。

――前半の日本のシュートは3本、オーストラリアは5本でした

賀川:前半はじめにも日本が攻めたが6分に相手に攻め込まれたとき、エリア内で倒してPKを与えてしまった。原口が相手の後方から当たってしまった。

――ノーマークになっていたから、これはと防ぎに行ったのでしょうが

賀川:こういうピンチのときになんとかしようという気持ちはあって当然だが、エリア内のファウルはPKで、PKは試合の流れの中の相手のノーマークシュートよりも、なお失点になることが多いからね。

――U-16も立て続けにPKを取られて2-4で負けましたからね

賀川:こういうPKのときはゴールキーパーは先にヤマをかけて動きたいものだが、実際は先に動かないがいいと私は思っている。ビッグゲームでのPKを随分見てきた経験からそう思うのです。

――テレビの前で先に動くなと叫んでいましたね

賀川:でも結局は決められた。ゴールキーパーにとっても緊張する場面だが、相手のキッカーにも同じようにプレッシャーがかかるのですよ。

――そのうちにPK論をまたやってください

賀川:オーストラリアはこのゴールで元気づく。

――日本の天敵とも言うべきベテランのケーヒルも投入してきました

賀川:日本にもチャンスがあった。クロスを小林がヘッド、GKが防いでCKに逃げた。まぁこういうヘッドの強さという点になると私たち古いファンは60~70年代の日本のFW釜本邦茂を思い出してしまう。

――ヘディングがうまかった

賀川:足のシュートも正確ですごかったが、ヘディングはクロスの折り返しのヘッドでも、単に落とすだけでなく狙った仲間の頭上に合わせてヘディングできたからね。

――いまは長身選手も多い。ヘディングのゴールは大きな武器の一つだから、ずば抜けた長身でなくても空中戦で勝つことも大事ですね

賀川:2006年ドイツW杯の初戦でオーストラリアに敗れたのは空中戦からだった。

――日本は小林が倒れて一時は10人で戦う時間帯もあってハラハラした。清武を37分に(小林と交代)、浅野を本田に代えて(39分)送り込んだが、2点目を生むことはできなかった

賀川:アジアでも1、2と言われるオーストラリアとのアウェーで引き分けたのだから、まずまずと言えるかもしれないが、こういう試合で勝つ日本を見られればと思ってしまう。

――イレブン全員が最後まで戦い続け、ともかく勝ち点1を加えました

賀川:普通なら、まずまずと言いたいが、何しろこのチームは最終予選の最初にホームでの試合を落としているから、ずっと勝ち続けなければならない立場にいるのです。代表選手、代表チームというのは責任があって大変だが、このあとももう一段のがんばりを見せてほしいものです。若い選手も伸びてきているし、ヨーロッパ組も代表の環境に慣れて来れば、このあとの試合をいい状態で迎えることができるでしょう。

――――次は11月15日に埼玉でサウジとの試合です

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目いっぱいの戦いでイラクに勝利

2016/10/11(火)

アジア最終予選(Road to Russia)
2016年10月06日 埼玉スタジアム2002
日本 2-1(1-0)イラク

タイムアップ直前の山口蛍のペナルティエリアいっぱいからのシュートが、ゴール前の密集地帯を通り抜けてゴールに飛び込み、2-1。日本代表はワールドカップアジア予選の対イラク戦を制して一歩前進、11日には強敵オーストラリアとアウェーで戦う。

前半26分に右サイドから清武が本田からの縦パスを受けて、ゴールラインまで進み、右ポスト近くの原口にパス。原口がヒールキックしたボールは背後にいたGKハミードの足間を通ってゴールへ転がり込んだ。相手ボールを自陣で奪ったこのカウンターは、奪った清武のドリブルと、本田のパス。その本田がゆっくりキープする間に、清武が後方から右サイドを駆け抜けて本田からのパスを受けるというスケールの大きいパス・アンド・ゴーから、左から右ポスト際まで走り込んだ原口にパス。原口はこのボールを自分の股下で右足ヒール(かかと)に当てると、ボールは原口に密着するように構えていたGKの足間を抜けた。

このパスとドリブルを組み合わせた日本の1点目はそれぞれの選手の技術の高さと清武の長い疾走で生まれたビューティフルゴールとして歴史に記録されるだろう。

後半に入り、15分にFKからのアブドゥルアミールのヘディングでイラクに同点にされると、勝たなければならない日本は、当然攻めに出る。イラクは引いて厚く守りながら、時おり攻め上がりを見せる。

この日の日本のラインアップは、トップが岡崎、第2列に右から本田、清武、原口、ボランチが長谷部、柏木、サイドバックは右が酒井宏、左が酒井高。守りの要のCDFは吉田と森重、GKは西川だった。

前半はじめは、少しパスミスなどもあったが、時間経過とともに選手たちの調子が高まり、粘り強くボールを奪い合い、また運動量も多かった。もちろん相手のイラクは個々のボールをめぐる戦いに強く、相手をイラつかせる心理プレーもなかなかのものだが、日本側の勝とうとする意欲は、そうしたイラクを相手に衰えることはなかった。

日本は後半に山口(22分、柏木と交代)、30分に浅野(岡崎と交代)、36分に大黒柱の本田に代えて小林を送り込んだ。45分ごろからロングボールの攻撃が始まった。自陣からのFKでヘディングの強い吉田が相手ゴール前へ進出した。DFからのロングボールをエリア内で吉田がヘディングで落とし、浅野が飛び込んで場内を沸かした。46分に2本のロングボールがエリア内に落ちた。48分には山口から左へ長いパスが出て、吉田が左コーナー近くでこのボールを取り、イラク側のファウルでFKになった。

このFKがイラクの命とり、日本の貴重なゴールを生むことになる。左コーナーの内側2メートルにセットされたボールを蹴ったのは清武。9.15メートル離れた2人のイラク選手の横を通り、速い球でゴール前へ。GKの前3メートルあたりで両チームの選手がヘディングで競り合い、高く上がったボールがゴール正面、ペナルティエリアのラインのすぐ内側に落ちると、そこに山口がいた。しっかりした助走と的確な踏み蹴りで、山口の右足はボールが地面に届く前にボールをたたき、シュートはゴール左に吸い込まれた。

スローのリピートは背番号16が右足でボールを正確にたたくところを映し、ゴール裏からのカメラはそのシュートがジャンプした19番の下を通ってゴールネットに飛び込んでくるのを捉えていた。2-1となった後の2分ばかりの間に、イラクが攻撃に出たことに、彼らの意地を見たが、日本代表はそうしたイラクの粘りを突き放した。

試合後の選手の談話には、ホッとしたという言葉が多かった。山口には自分の誕生日のゴールだったが、「あのシュートはふかしてしまうことが多いが、うまく蹴れてよかった」と、控え目だった。

日本代表が持ち味のパス攻撃でなく、終盤にロングボールの力攻めを演じたことは、相手を疲れさせ、自らの士気を高める効果はあっただろうが、ゴールを生んだのは、左サイドからのFK、つまりサイドからのクロスボールということになるのが、サッカーの面白さだろう。テレビで見たAFC U-16選手権のイラクとの試合で、相手が闘志をむき出しにして戦いを挑んできたとき、日本にはその感じが見えなかったことがあった。(2-4で敗れた)フル代表は自らが「目いっぱいに」戦うという姿勢を見せ、それが持てる技術を発揮することになったのだろうと感じている。これもまた、この競技の面白さだろう。

90歳をこえて、こういう試合を見られるのは、誠にありがたいこと。監督さんや選手の皆さんに感謝したい。

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9月10日の日本サッカー殿堂入り ベルリン・オリンピック代表チームとブラジル人のジーコ

2016/09/16(金)

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――9月10日に東京でのJFA殿堂入り式典に参加しましたね。いかがでしたか?

賀川:日本サッカー協会(JFA)の創設(1921年9月10日)を記念して9月10日はJFA創立記念日となっています。この記念日の行事に、その年の「殿堂入り」の式典があります。日本サッカーの発展にかかわり、大きな影響を及ぼした人たちを選んでの表彰です。

――13回目の今年から新しく「チーム表彰」の規定を設けたとのことで、1936年ベルリン・オリンピックの日本代表選手16人と監督、コーチ3人が選ばれました。19人の中には、すでに個人的に殿堂入りの人もいますが、今回はチーム全員ということです。そして個人の部でブラジル人のジーコも殿堂入りしました。賀川さんにはなじみのある人ですね。ジーコさんはもちろん、ベルリンの先輩たちも

賀川:Jリーグがスタートしたとき、ジーコは鹿島アントラーズで選手兼コーチをしていました。1978年にジーコが初めてブラジル代表としてワールドカップに出場したとき、そのデビュー試合をアルゼンチンのマル・デル・プラタで取材しましたよ。ピッチの芝がしっかり根つかず、ジーコがめくれた芝生を蹴っ飛ばしたのを見ています。

――ジーコは表彰式には出席しなかったのですね

賀川:会えるのを楽しみにしていましたが、来日していませんでした。ベルリン大会のチーム表彰で、当時のメンバーの遺族が多数出席していたので、表彰式もその他のレセプションも賑やかでしたが…

――1924年生まれの賀川さんから見れば1936年のベルリン・オリンピック代表は?

賀川:1936年は私が小学校6年生のときですから、日本サッカーが勝ったという話はそのころはあまり話題にならず私も聞いていません。ラジオのベルリンからの中継放送では女子水泳の「前畑ガンバレ」が有名でした。私も、深夜にベルリンからの中継放送をラジオで聞いた記憶があるが、どの放送だったか…のちに記録映画が日本でも上映されました。第一部の「民族の祭典」はとても人気になりました。サッカーは第二部の「美の祭典」に収録されていました。合宿や練習風景とイタリア対オーストリアの決勝が短い時間で紹介されました。日本の試合の場面はありませんが、このフィルムは懐かしく、戦後再上映されたときは、何度も映画館に足を運びました。

――ドイツの女性映画監督レニ・リーフェンシュタールの作品で映画としてもよくできているとの評判でしたね

賀川:そうですね。わたしが見たのはベルリン大会の翌年、たしか神戸一中に入学してからだったと思います。

――ベルリンの代表では神戸一中の先輩は案外少数ですね

賀川:早大が主力でしたからね。神戸一中はその少し前の時代から旧制高等学校を通じて東大や京大へ進学し、早大へは少数でした。慶應の方が多かったのです。ベルリンでは一中のOBは右近徳太郎さん(慶應)でした。

――その早大の先輩たちと戦後の付き合いがありましたね

賀川:ベルリンの対スウェーデン戦のヒーローのひとり川本泰三さんとは大阪クラブで天皇杯で一緒にプレーしたこともあり、またサッカー専門雑誌の企画で何度も話しました。釣りが好きで山の中の川へ行くのに、山に多少通じていた私が同行するようになり、そんな折にもベルリンのころの話をよく聞きましたよ。川本さんは兄・太郎のプレーを高く買っていたこともあり、「戦後、僕がサッカーをするのに賀川太郎や岩谷俊夫には随分迷惑もかけた。彼らのサッカーにも多少、役に立ったかもしれないがな」などと言っていましたよ。釜本邦茂の成長にも影の力になった人ですよ。

――ボールの扱いがとても上手だったとか…

賀川:僕は川本さんと一緒にプレーするようになって、ボールタッチに天賦の才があると知りましたよ。若い頃からボールを止め損なうのを見たことがないと言われていました。そのボール扱いからシュートの名人と言われるようになった成長過程については別の機会に譲りますが、先輩のこういう人がいたから、私は日本サッカーが戦後のある時期、長く低迷していたときにも、いつかもっとみんなが上手になると思い、諦めることはなかったのです。

――ベルリンで負けたスウェーデンについても調べましたね

賀川:1992年にスウェーデンでヨーロッパ選手権(EURO1992)が開催されたときに大会の取材とともに「1936年ベルリン」について調べたいと思いました。

――それで

賀川:驚いたのは、国内航空で隣席の人をはじめ、たくさんの人に36年のベルリンの話をすると、ほとんどの人が知っていたことです。父から聞いた、祖父が言っていた、叔父さんが話していた、といろいろなエピソードを語ってくれました。日本チームの動きが速く運動量が多かったこと、技術が優れていたこと。「ラジオのアナウンサーが実況放送で『そこにもヤパーナ(日本人)、ここにもヤパーナ』と日本選手の方が多く見えると、ヤパーナ、ヤパーナを繰り返したので、しばらくそのアナウンサーはヤパーナのあだ名で呼ばれていたこと、日本人はシュネール(速い)と繰り返しアナウンサーが読んでいたこと。

――敗れたスウェーデンの人たちの内で戦後も語り伝えられていたのですね

賀川:サッカーのスウェーデン社会での大きさや歴史を改めて感じましたね。このときは…

――日本でも2016年に「殿堂」のおかげでもう一度歴史を振り返ることができました。

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