91年目の日本サッカー(下)

2012/01/20(金)

◆90年で男子16強、女子が優勝
 世界のおかげで力を蓄えた日本サッカー

賀川:なでしこジャパンの優勝は、私から見れば、JFA(日本サッカー協会)の創立90周年にあたる年に、日本のサッカーと最も深い関係にあったドイツという国での大会で世界一になったことがとても素晴らしい。
 1936年のベルリン・オリンピックで日本の(男子)代表は初めての五輪参加でスウェーデンという強国代表を倒してヨーロッパを驚かせた。その75年後に女子が、世界のトップのドイツやアメリカに勝ってチャンピオンになったのです。
 日本サッカーの成長にはさらに古い時代、第1次世界大戦で捕虜になったドイツの軍人たちが広島での収容所生活中に日本人チームにサッカーを教えたのが、大正の末から昭和のはじめにかけての日本の進歩に大きな影響を与え、その流れをくむ代表がベルリンでの快挙を演じた。
 そしてまた、東京オリンピックの時に代表を指導し、日本サッカーの改革の大きな力となったデットマール・クラマーによって次のステップに進み、女子もまた、その日本サッカー全体の上昇の中で、関係者の努力が実ったといえる。

――2010年の南アフリカW杯で16強入りした日本代表の岡田武史監督もドイツでコーチ修行をしたのでしたね。

賀川:因縁の深いドイツでの2011年の次、今年はロンドン――。
 ここでU-23と女子(なでしこ)がいい成績を挙げてくれれば、日本サッカーはサッカーの母国イングランドへの恩返しができる。

――というと

賀川:JFA創設のエピソード……イングランドのFA(フットボール協会)から大正8年(1919年)にシルバーカップが贈られてきた話をご存知でしょう。

――元旦の天皇杯の時にも、そのカップが披露されていました。

賀川:協会創立にかかわる話ですからネ。JFAの創設にあたっては、キッカケとなったカップだけでなく、外交官のウィリアム・ヘーグさんが協会の運営などについてアドバイスしてくれているのです。

――ロンドンでのオリンピックは3回目で、1908年の第4回大会で初めてサッカーが正式競技になったのですね。

賀川:ロンドンでのオリンピックについてはまた色々な面白い話があるけれど、私は、日本のサッカーの急速なレベルアップの基礎には、1969年の第1回FIFAコーチングスクールがあったことを忘れてはいけないと思っています。

――クラマーさんがヘッドコーチとなって検見川で開催しました。上田亮三郎先生や加茂周さんも受講なさった。

賀川:そうです。これで、日本はコーチ育成のノウハウを学び、そこから、技術力アップが始まるのです。そのクラマーの提案を受け入れて、このコーチングコースを開催した当時のFIFA会長サー・スタンレー・ラウスさんもイギリスの人です。

――日本の発展には、色々な国の人の力があったわけですね。

賀川:なでしこが世界チャンピオンになり、SAMURAI BLUEがW杯の常連のようになってきた。
 今年8月には日本で女子のU-20のW杯も開催される(8月18日-9月9日)。

――トヨタのFIFAクラブワールドカップも昨年からまた日本に戻ってきました。

賀川:今やアジアの“サッカー国”となろうとしている日本ですが、ここまで来るのに、世界の皆さんからの助けがずいぶんあったことを忘れてはいけないと思う。

――そういう謙虚さがチームの態度に出れば、いい国際交流ができるでしょうね。


◆91年目に入って積極的な国際的活躍を期待

――そういえば、岡田武史さんが中国のトップリーグ、杭州緑城の監督に就任しましたね。

賀川:アシスタント役の小野剛コーチも一緒らしいね。
 JFA創設からの10年は、当時のサッカー先進国・中華民国に追い付き追い越すことが目標だった。協会創設50年でクラマーという外からの大きな力を得て、それを足場に、72年後のJリーグのスタートで一気にレベルアップし、81年目の日韓共催ワールドカップでその進歩の基礎固めもできた。
 岡田さんが中国へ出かけるのも、91年目の日本サッカーとしてはとても注目されることですヨ。

――杭州が優勝すれば……

賀川:同じ東アジアだが、大陸の中国は島国の日本や半島の韓国とも違いの大きいところ。そこでのチーム指導の経験は、岡田さんにとっても日本サッカー全体にとってもとても大きな財産になりますヨ。当然、日本のメディアも取材に行くだろうし、中国という大きなサッカー国に日本人が関心を持つことにもなる。

――91年目の日本がさらに外にも目を受けてゆく、一つの表れかもしれませんね。

【了】

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91年目の日本サッカー(上)

2012/01/19(木)

◆87歳の引越し。図書を整理し片付いた家に、気兼ねなくおいで下さい

――2012年、平成24年も半月以上すぎました。12月29日が誕生日ですから、賀川さんは満87歳になったわけですね。転居されたとのことですが……

賀川:11月末に引越しました。同じ芦屋市ですが、20年近く住んでいた山芦屋(やまあしや)町から、朝日ヶ丘町というところへ移ったのです。

――そう、大変だったでしょう

賀川:皆さんへの連絡が遅れたりして申し訳なかったのですが、どうやら落ち着きました。

――なぜまた転居を? 第一、大量の図書資料を動かすだけでも大変だったでしょう。

賀川:山芦屋は空気もいいし、静かでいいところでしたが、20年も住んでいると紙の山に埋もれてしまう感じになってしまいました。資料整理の意味もあり、思い切って移転したのです。

――ネコのダイ君はどうしました?

賀川:8年一緒に暮らしていたダイ君が、急に体調を崩して逝ってしまいました。それも(移転の)原因の一つではあります。

――失礼ですが、そのお年での引越しは大変でしたでしょう。

賀川:いささか無謀でもありました。
 引越しの当日は完全に疲れていて、イスに座っていただけです。たくさんの人に迷惑をかけ、お世話になって、ともかく移り住むことができました。
 図書資料の一部も、芦屋市サッカー協会の西田俊一会長の計らいで預かって頂く場所ができたので、山芦屋と変わらぬ広さですが、今度はお客さんに座ってもらうスペースもできました。山芦屋では、来客の度に資料の紙袋を移して玄関からの通路をつくる――といった状態でしたが、今は少しはゆったりできます。
 どうぞ、気兼ねなくおいで下さい――とサッカー仲間に声をかけていますヨ。

◆なでしこ優勝の余韻が続く2012年、今度は母国イングランドでのオリンピック

――今年も、取材や執筆は……

賀川:ぜひ続けさせてもらいたいと思っています。仕事のしやすい環境ということで引越したのですから。

――日本のサッカーは昨年、なでしこのワールドカップ優勝がありました。今年も賑やかになりそうですね。

賀川:なでしこ優勝の余韻は、今年にも続いています。
 彼女たちは7月25日~8月11日までのロンドン・オリンピックで、もう一度、オリンピックという場での世界一を目指す。男子のU-23代表も出場してくれるでしょう。

――サッカーの母国・イングランドの首都ですよね。

賀川:昨年のなでしこは、ドイツでの大会だったでしょう。2011年の女子W杯はFIFA(国際サッカー連盟)にとっても、とても重要な大会でした。女子のサッカーそのものの歴史は古くても、国際大会ということになると、他の競技から見るといささか出遅れていました。

――何といっても激しいスポーツだから、長い間、女性には無理だろうという考えが拭えなかった。

賀川:FIFAが積極的に推進して、その成果がどんどん見えてきた。そして、ドイツという最もサッカーの環境の整ったところでの2011W杯で、一気に女子のメジャー・スポーツとしてのデモンストレーションをとブラッター会長たちは考えていた。その大会で日本が優勝したのですヨ。

――ドイツが優勝した方が、ヨーロッパはもっと盛り上がった――という人もいるかもしれませんね。

賀川:日本代表が優勝したことは、女子サッカーが既に世界に広まっていることを示したという点で、素晴らしい大会となった。もちろん、テレビを通して見た開催国ドイツの大会運営も素晴らしかったでしょう。

――日本の優勝は、世界的にも意義があったと……

【つづく】

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2012「あしやスポーツフォーラム」

2011/11/30(水)

2012「あしやスポーツフォーラム」にて賀川が講演を行うことが決定しました。
参加費無料ですので、ぜひご参加ください。

〔主  催〕 芦屋市教育委員会・
あしやスポーツフォーラム
(構成団体)特定非営利活動法人芦屋市体育協会・芦屋市レクリエーションスポーツ協会・芦屋市スポーツ推進委員会・スポーツクラブ21ひょうご芦屋市連絡協議会
〔日  時〕 平成24年2月4日(土)
14:30~15:00 受 付
15:00~15:30 第1部「賀川浩氏の歩み」をスライドで紹介
15:30~16:45 第2部「賀川浩氏のスポーツ講演」
 テーマ:サッカーから見た「現代スポーツの潮流」
16:45~17:00第3部・質疑応答
〔会  場〕 芦屋市立体育館・青少年センター2F大会議室(芦屋市川西町15番3号)
〔講  師〕 スポーツジャーナリスト 賀川 浩氏(平成23年度芦屋市民文化賞受賞)
〔参加料〕 無 料
〔定  員〕 80名(受付先着順)
〔申し込み〕 所定の参加申込書かハガキで必要事項(氏名、住所、TEL、所属等)をご記入の上、1月27日(金)までに下記へ申し込んでください。          
※FAXでの申し込みOK
       〒659-0072芦屋市川西町15番3号芦屋市立体育館・青少年センター2F
                芦屋市教育委員会スポーツ・青少年課スポーツ担当
                TEL0797-22-7910・FAX0797-22-1633

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幻のサントス戦、思わぬ発掘物

2011/11/10(木)

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――幻のペレ来日・入場券が出てきたそうですね。

賀川:それほど大ゲサな話じゃないのだが、1971年にペレとサントスFCを招く話があって、それが不成功に終わった――。そのとき神戸での試合用に印刷した入場券が我が家のどこかの机の引き出しに入っていたというわけです。

――ことしのトヨタカップの南米代表がサントスだから、面白い符合ですね。

賀川:ご存知のようにペレとサントスは1972年に来日して国立競技場で1試合だけ戦った。試合はサントスが3-0で勝ったが、とてもいい試合だった。ペレがまたすごいシュートを2本決めてネ。その2点目(チームの3点目)は歴史に残るシュートで、本人もとても喜んでいたよ。

――それを生で見たのですか?

賀川:国立競技場の記者席でね。後半だったから、メインスタンドから見て左側にあるゴールに向かってペレとサントスが攻めた。詳細は別の機会にするが、ブラジル代表を引退したあとまだサントスではプレーしていて、そのサントスの世界巡業という感じだった。

――それでもペレはすごかったと

賀川:満員の観客の前で日本代表も力いっぱい戦ったから、ペレ自身も気持ちが高揚したんだと思う。ボクは大型の双眼鏡で彼を見ていたからその気持ちの昂りや充実ぶりを察することができた。

――その話ももっとしてもらいたいのですが、71年の入場券に……

賀川:ブラジルの体協、つまりサッカー連盟とサントス側の話し合いがつかず、サントスの遠征ができなくなったのですヨ。そのあたりの事情は、当時のサッカーマガジンに牛木素吉郎さんが書いてくれているから、皆さんの参考になるでしょう。

――入場券には「50周年記念事業」と書かれています。90周年にあたる今年にそんなチケットが出てくるとはフシギなものですね。

賀川:何しろ神戸御崎中央球技場(現・ホームズスタジアム神戸)、券もメインスタンドやバックスタンドの自由席、立見席、生徒用など各種ある。

――40年前の思わぬ発掘品ですね。

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【お知らせ】「芦屋市民文化賞」受賞、記事掲載

2011/11/01(火)

このたび、賀川浩が「芦屋市民文化賞」を受賞することとなりました。

 ※広報紙『広報あしや 11月1日号』 ※リンクはPDFデータです

本日の朝日新聞(阪神面)にも記事を掲載して頂きました。

長年にわたって活動を続けることができているのは、
関係者、読者の皆様のおかげです。有難うございます。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

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フットウェアの保温効果に唐辛子入り繊維……よみがえる半世紀前の日韓戦の寒さの記憶

2011/10/27(木)

――朝晩がめっきり冷えるようになりました。

賀川:10月も下旬だから「つるべ落とし」といわれるくらいに日の沈むのが早くなり、暗くなると一気に気温が下がる。天気の良い日はそれが顕著だね。秋への嬉しさでもあり、淋しさでもある。冷え込みから10月27日のNHKの朝の番組でフットウェアの話が出ていた。

――朝のって、ごひいきの有働由美子さんが司会している番組ですね。

賀川:ストッキングやタイツといった、足をあたたかくする女性のフットウェアがとてもファッショナブルになっているということで、色んな色合いやデザインのものが次々に登場していた。

――足に関心があるといっても、賀川さんにはめずらしいことですね。

賀川:その最後のあたりで、保湿効果のあるストッキングだったかの素材に「唐辛子」を織り込んだものがあると聞いたので感心したんですヨ。

――唐辛子ねぇ

賀川:1954年のワールドカップの予選で、最初の日韓戦が東京で行なわれたのは知っているでしょう。

――第1戦が3月7日で、天候が前日に急変して雪が降り、明治神宮競技場(旧・国立競技場)のピッチは最悪の条件。いったん雪が溶けて、当日朝の寒さで薄氷が張っていたとか。

賀川:その第1戦は1-5で韓国に敗れ、第2戦(3月14日)は同じグラウンドで天気も良かったが、2-2で引き分け、韓国が東アジアの代表としてスイス大会に出場した。

――それが、唐辛子と……?

賀川:第1戦で、寒さに慣れない日本選手は参ってしまったのに、寒いソウルからやってきた韓国の選手は苦にしなかった。泥水の中でスライディングしたDF山路修は、そのあと上半身が痺れたようになったという。

――だいたい、こんな日に試合をするのも難しいですね。

賀川:英国人のレフェリーは中止を勧告したのだが……。
 それは別として、今日のボクの話は、日本選手の常識に無かった寒い悪コンディションに、韓国側が元気なプレーをしているので、兄・太郎が彼らに尋ねたら……

――賀川太郎さんは第1戦も第2戦もフル出場でしたね。

賀川:韓国の選手はこういう日に、靴の中に「唐辛子」を入れておくと、とても温かいといっていたそうだ。

――なるほど、それが朝のテレビの話題と結びつくわけか。

賀川:いまなら常識になっているようで、「唐辛子」効果も57年前の日本サッカーではコーチも選手も知らなかった。

――そういえば、太郎さんは51年のニューデリーでもレモンの話を持って帰りましたね。

賀川:あれは寒さでなくて、インドの3月の乾燥期の暑さでの経験。水を飲むと喉が引っ付いてしまう感じになったそうで、インドの人たちはレモンの小片を口に入れるといいといっていたらしい。

――いろいろな経験を積んで、日本のサッカーは少しずつ積み上げてきたということですね。

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続・ドクターとして、プレイヤーとして、兵庫・神戸の医療とサッカーに尽くした“やっチン”皆木吉泰(下)

2011/10/20(木)

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皆木3兄弟の次兄・良夫さん(後列中央)


賀川:ボクの1年下の岩谷俊夫たちはほとんど小学校からボールに慣れていていい選手が揃っていた。1年あとの彼らは体は丈夫そうだがボール扱いが下手だった。神戸一中が全国で優勝を続けるためにはどの年度もレベルアップしなければならないと、この45回生はずいぶん練習させた。ときには恨まれたこともあったがネ。

――鴇田正憲、岡田吉夫という日本代表が出ましたね。

賀川:それも嬉しいことだが、ここで一つ言っておきたいのは、ボクが同志社大学の夏の合宿のコーチを頼まれたときに、この45回の面々に集まってもらって実演したことがあった。

――関学のキャプテンだった鴇田さんにドリブルをさせ、それを同志社の選手が200メートル走っても追いつかなかったという話を聞きました。

賀川:それもあるが、別の日に皆木肇とやっチン、鴇田、飯田、岡田に来てもらって、同志社の練習のハーフマッチで、かねてから考えていた攻めの動きをテストした。

――ふーむ、どのような

賀川:3FBを基礎とするマンマークを外してゴールを奪うために、ボールを持たない選手が動くこと、それも単純な縦や横でなく、斜めにクロスして走るのをやった。ボクはクリス・クロスの交差(十字の交差)と名付けたのだが、これで面白いようにノーマークをつくり点を取った。もちろん相手の力が下ということもあるが、ボクは自分の考えが間違っていないのを喜んだ。このあとで来日したスウェーデンヘルシンボリが同じ動きをしたのを見て、我が意を得たりというところだった。

――ヘルシンボリについては最近のサッカーマガジンの『日本とサッカー、90年』にも書かれていますね。
 それはそうと、話のなかに皆木肇という名前がありましたが、皆木3兄弟とは?

賀川:親類でも何でもなく、同姓で、彼は中学5年で海軍兵学校へ行き戦争が終わって神戸大学へ入りプレーした。お尻が大きいので「モケ」というアダ名だった。彼は事あるごとに、あの同志社のときは面白かったといっていた。気の毒に、阪神大震災で自宅が倒壊し、その中で死んでしまった。

――皆木吉泰さんから45回生全体の話になりました。

賀川:彼らは少年期に厳しい練習をしながら、大戦争で中断された。ボクや兄・太郎たちと同じ戦中派だけに、彼らのことはいつも頭に残っています。それでも45回生、またはそれより1~3歳下の学年よりはまだマシな時期だったかもしれない。いずれにせよ、ひどい時代に育った仲間ですよ。ドクターになった“やっチン”や飯田純クンにはいろいろ世話になった。改めてお礼を言いたいね。


【了】

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続・ドクターとして、プレイヤーとして、兵庫・神戸の医療とサッカーに尽くした“やっチン”皆木吉泰(上)

2011/10/19(水)

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皆木3兄弟の長兄・忠夫さん(前列左端)
その後方は賀川浩の兄・太郎さん
昭和13年、兵庫県中学校10マイルレースで神戸一中が団体優勝したとき



――前・神戸市サッカー協会会長・皆木吉泰さんがサッカー選手だったとは聞いていましたが、3人の兄弟がそれぞれ実績を持っていたのですね。

賀川:3兄弟は神戸の諏訪山(すわやま)小学校出身で、体は大きくはなかったがそれぞれ特徴のあるいいプレーヤーでしたヨ。
 長兄の忠夫さんが神戸一中に入学したのが昭和9年だから、このときの最上級生が36回の大山政行、二宮洋一(第2回サッカー殿堂入り)津田幸男、前川光男、笠原隆、直木和、田島昭策といった錚々たるメンバー。4年生に大谷四郎(第6回サッカー殿堂入り)がいた。

――いわば戦前の神戸一中黄金期ですね。

賀川:そう、河本春男先生が着任して3年目。このすぐれた指導者を得て神戸一中サッカー部が伝統のうえにさらに新しい力を加える時期だった。忠夫さんは神戸一中で全国準優勝と優勝を経験し、第六高等学校でも旧制インターハイのチャンピオンになった。京大を卒業して住友金属工業に就職し、会社のサッカー部でも活躍するとともに、サッカー部長をも務めた。実業団時代は全国優勝はなかったが、このクラブがのちに鹿島アントラーズとなってジーコとともにJリーグをリードするクラブとなったのは皆さんもご存知のこと。忠夫さんは稲作でいえば苗床(なえどこ)をつくったことになるだろうか。

――すごい話ですね。

賀川:良夫さんは早大に進んだ。同じ一中の後輩では岩谷俊夫(44回/第2回サッカー殿堂入り)岡田吉夫(45回)たちが早大へやってきたから、強いチームをつくることができた。

――吉泰さんは、プレーヤーとしての大事な時期に太平洋戦争にぶつかった。

賀川:彼が中学3年生のときに戦争が始まった。それでも次の昭和17年は、先述したとおり全国大会があり、4年生のときはタイトルも取った。5年生のときも強いチームだったが、全国大会は戦局のために開催されず夏と秋に兵庫県の大会が1回ずつ行なわれ、どちらも優勝したが全国で試すチャンスはなかった。

――大戦後は

賀川:ボクや兄も軍隊から復員してすぐにボールを蹴り始めた。彼は父君の後を継いでドクターへの道を進んだ。それでも戦後しばらくはサッカーの集まりに顔を出していた。確か、戦後初めての日本代表候補の強化合宿が静岡県・三島で行なわれたとき彼も参加したハズですよ。

――代表候補だったのが“やっチン”さんのプライドですね。

賀川:彼や鴇田正憲(第2回サッカー殿堂入り)、飯田純、岡田吉夫、三木武、鶴岡襄治、そして皆木肇、伊藤光一といった神戸一中45回生、つまり私の2年下の7人の一人ひとりはボクの秘蔵っ子でもあった。

――というと

【つづく】

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大型日本代表FWハーフナー・マイクのゴール。長い記者生活での初体験、194センチの豪快ヘディング(下)

2011/10/19(水)

●2014FIFAワールドカップブラジル アジア3次予選 GroupC
 第1節 2011年10月11日19時45分キックオフ
 日本 8-0 タジキスタン
   (4-0、4-0)


――中村憲剛のトップ下も良かった。

賀川:1点目は右サイドでのパス交換のキープのあとのクロスをハーフナー・マイクが叩き込んだが、これは
(1)長谷部誠からのパスを受けた駒野友一が、
(2)前へ出た中村にスルーパスを送り、
(3)ペナルティエリア外、ゴールライン近くの中村が駒野に戻す。
(4)それを駒野がダイレクトで右足でクロスを蹴り、ファーポストに走ってジャンプしたマイクが力強くヘディングした

――憲剛の得意の飛び出しですね。

賀川:このとき、相手側はエリア内でゴールを守るために5人いた。日本は岡崎慎司とマイクの2人だけだった。憲剛の深い位置からのクロスではまだマイクの体勢ができていなかったから、中村は後ろへ戻した。このスルーパスのあとのバックパスで、タジクのDFの目はボールに注がれる。後方からジャンプヘッドの体勢に入ってくるマイクは気付かれないうちにいいポジションで踏切に入れたのですよ。

――身長差があるうえに、“消えた”位置から出て来たマイクに相手のDFは勝てなかったというわけですね。

賀川:ヘディングをしたときのマイクは首一つどころか胸から上が出ていたくらい相手より高かったからね。

――ザックさんも自分の狙いが当たって喜んだでしょうね。

賀川:ハーフナー・マイクが自らのゴールで代表チームの中での自信をつけたハズ。そのことが何よりだね。

――小さいのが“売り”のようでもあった日本代表に、194センチのノッポが加わった。オランダからの帰化人という点に抵抗はありませんか?

賀川:ボクのような古い日本人にとっては、60年来見続けた代表で初めてこれほどの長身FWが日本にできたことはとても嬉しいことですヨ。日本にも、1968年メキシコ五輪銅メダルチームには釜本邦茂という当時の大型ストライカーがいた。彼は身長182センチで日本代表の中ではズバ抜けた体格だった。GK横山謙三が175センチの頃ですヨ。世界的に見ても、74年ワールドカップ優勝チームの西ドイツ代表GKゼップ・マイヤーが182センチだった。ということは、大型化された今の世界のサッカーで各国のトップ級GKは187~188センチから190センチが普通でしょう。となると大型FWといえばやはり190センチクラスとなる。
 1988年のオランダのマルコ・ファンバステンルート・フリットの登場以来、大型化が進み、2006年ワールドカップ優勝のイタリアチームには3人の190センチクラスがいた。一人はFW、一人はサイド、一人は中央のDFだった。

――バルセロナのような小兵の攻撃陣が活躍するチームも出てきていますが……

賀川:そう、そこがサッカーの面白いところですよ。しかし日本は、自分たちが平均して欧米人より背が低いからといって大型選手を諦めてはいけない。かつての釜本の例もあり、この1億2,000万の人口、長い日本列島の中には大型の優秀プレーヤーになる素材が少なくないハズです。

――バレーボールを見ても大型のいい選手はいますね。

賀川:今度はたまたまハーフナー・マイクというオランダ系のプレーヤーが代表に加わった。これは日本サッカーがこういうオランダの家族をも魅きつける力を持った、日本全体のサッカーが大きくなったといえるでしょう。こういう例を見れば、日本人で大柄な少年がサッカーへの興味を増してくれるだろうし、また、家族のバックアップも違ってくると思いますヨ。

――その意味で、賀川さんはこの試合が歴史的だというのですね。


【了】

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大型日本代表FWハーフナー・マイクのゴール。長い記者生活での初体験、194センチの豪快ヘディング(上)

2011/10/18(火)


●2014FIFAワールドカップブラジル アジア3次予選 GroupC
 第1節 2011年10月11日19時45分キックオフ
 日本 8-0 タジキスタン
   (4-0、4-0)


――日本代表が11分にハーフナー・マイクのヘディングシュートで先制して、前半に4-0とし後半も攻撃の手を緩めず4得点を加えて8-0で大勝した。タジキスタンはこのグループでウズベキスタンと北朝鮮に2敗していますが、どちらも0-1という僅差だったから日本側も相当警戒していたのですが……

賀川:これで3次予選は3戦2勝1分け。同じ日にウズベキスタンが北朝鮮を破って2勝1分けと勝敗数で日本と並んだ。日本はこの8ゴールで得失点差で大きく上回って、残りの3試合が有利になった。しかし何より、私にはハーフナー・マイクが代表初ゴールしただけでなく、新しい大型FWとして代表のメンバーとなったことが嬉しいね。

――大型FWが必要――は、賀川さんの長年の意見でしたが、それが平山相太でなくてハーフナーだった

賀川:日本のサッカー史上で194センチの長身FWが代表のメンバーとして出場してヘディングで得点したのは初めてのこと。クラブでも昨季、J1昇格の力となっていた。

――ザッケローニさんは目をつけていたのでしょうね。

賀川:194センチの高さは魅力。上背があるからヘディングは自分の武器だと心得て練習を積めば、能力を増す。高さだけでなく体全体が強くなり、足元のボール扱いもしっかりしている(一家挙げてプロを目指しているのだから当然だろう)。J1でのプレーを観察した監督さんが放っておくハズはないでしょう。

――3次予選シリーズに招集し、第1戦の対北朝鮮、第2戦の対ウズベキスタンに途中出場させた。得点はなかったが威力はあった。

賀川:このタジク戦の前のキリンチャレンジカップ、対ベトナム(10月7日)にも出場させる予定だったが、メンバーの故障などでピッチに立てなかった。しかし、この高さは生きるとザックさんは思ったのだろう。

――それが先制ゴールになって表れ、チームもスタンドもムードが一気に良くなり、8-0の完勝につながった。

賀川:この日の長居では選手たちもしっかりプレーしようという気迫があった。キリンチャレンジカップのベトナム戦は、相手が抵抗力のあるチームであったことと、遠藤保仁が休み、岡崎慎司も欠場した。何といっても遠藤がいないと日本代表チームの攻めの幅や深さが違ってくるからね。ベトナム戦で調子の上がらなかったぶん、代表チーム全体に気持ちが強まっていたハズですよ。
 日本チームがやる気になって、動き出しも早くなっている。しかも相手のタジクはボールの競り合いのときに粘りがない。第1、2戦ではファウル気味のタックルがずいぶんあったのに、今度はそうではない。相手のプレッシングが弱ければ、日本の技は冴える。しかも気持ちも動きも最後まで落ちなかったから、長居に集まったサポーターにはとても楽しい夜になった。


【つづく】

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