9月10日の日本サッカー殿堂入り ベルリン・オリンピック代表チームとブラジル人のジーコ

2016/09/16(金)

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――9月10日に東京でのJFA殿堂入り式典に参加しましたね。いかがでしたか?

賀川:日本サッカー協会(JFA)の創設(1921年9月10日)を記念して9月10日はJFA創立記念日となっています。この記念日の行事に、その年の「殿堂入り」の式典があります。日本サッカーの発展にかかわり、大きな影響を及ぼした人たちを選んでの表彰です。

――13回目の今年から新しく「チーム表彰」の規定を設けたとのことで、1936年ベルリン・オリンピックの日本代表選手16人と監督、コーチ3人が選ばれました。19人の中には、すでに個人的に殿堂入りの人もいますが、今回はチーム全員ということです。そして個人の部でブラジル人のジーコも殿堂入りしました。賀川さんにはなじみのある人ですね。ジーコさんはもちろん、ベルリンの先輩たちも

賀川:Jリーグがスタートしたとき、ジーコは鹿島アントラーズで選手兼コーチをしていました。1978年にジーコが初めてブラジル代表としてワールドカップに出場したとき、そのデビュー試合をアルゼンチンのマル・デル・プラタで取材しましたよ。ピッチの芝がしっかり根つかず、ジーコがめくれた芝生を蹴っ飛ばしたのを見ています。

――ジーコは表彰式には出席しなかったのですね

賀川:会えるのを楽しみにしていましたが、来日していませんでした。ベルリン大会のチーム表彰で、当時のメンバーの遺族が多数出席していたので、表彰式もその他のレセプションも賑やかでしたが…

――1924年生まれの賀川さんから見れば1936年のベルリン・オリンピック代表は?

賀川:1936年は私が小学校6年生のときですから、日本サッカーが勝ったという話はそのころはあまり話題にならず私も聞いていません。ラジオのベルリンからの中継放送では女子水泳の「前畑ガンバレ」が有名でした。私も、深夜にベルリンからの中継放送をラジオで聞いた記憶があるが、どの放送だったか…のちに記録映画が日本でも上映されました。第一部の「民族の祭典」はとても人気になりました。サッカーは第二部の「美の祭典」に収録されていました。合宿や練習風景とイタリア対オーストリアの決勝が短い時間で紹介されました。日本の試合の場面はありませんが、このフィルムは懐かしく、戦後再上映されたときは、何度も映画館に足を運びました。

――ドイツの女性映画監督レニ・リーフェンシュタールの作品で映画としてもよくできているとの評判でしたね

賀川:そうですね。わたしが見たのはベルリン大会の翌年、たしか神戸一中に入学してからだったと思います。

――ベルリンの代表では神戸一中の先輩は案外少数ですね

賀川:早大が主力でしたからね。神戸一中はその少し前の時代から旧制高等学校を通じて東大や京大へ進学し、早大へは少数でした。慶應の方が多かったのです。ベルリンでは一中のOBは右近徳太郎さん(慶應)でした。

――その早大の先輩たちと戦後の付き合いがありましたね

賀川:ベルリンの対スウェーデン戦のヒーローのひとり川本泰三さんとは大阪クラブで天皇杯で一緒にプレーしたこともあり、またサッカー専門雑誌の企画で何度も話しました。釣りが好きで山の中の川へ行くのに、山に多少通じていた私が同行するようになり、そんな折にもベルリンのころの話をよく聞きましたよ。川本さんは兄・太郎のプレーを高く買っていたこともあり、「戦後、僕がサッカーをするのに賀川太郎や岩谷俊夫には随分迷惑もかけた。彼らのサッカーにも多少、役に立ったかもしれないがな」などと言っていましたよ。釜本邦茂の成長にも影の力になった人ですよ。

――ボールの扱いがとても上手だったとか…

賀川:僕は川本さんと一緒にプレーするようになって、ボールタッチに天賦の才があると知りましたよ。若い頃からボールを止め損なうのを見たことがないと言われていました。そのボール扱いからシュートの名人と言われるようになった成長過程については別の機会に譲りますが、先輩のこういう人がいたから、私は日本サッカーが戦後のある時期、長く低迷していたときにも、いつかもっとみんなが上手になると思い、諦めることはなかったのです。

――ベルリンで負けたスウェーデンについても調べましたね

賀川:1992年にスウェーデンでヨーロッパ選手権(EURO1992)が開催されたときに大会の取材とともに「1936年ベルリン」について調べたいと思いました。

――それで

賀川:驚いたのは、国内航空で隣席の人をはじめ、たくさんの人に36年のベルリンの話をすると、ほとんどの人が知っていたことです。父から聞いた、祖父が言っていた、叔父さんが話していた、といろいろなエピソードを語ってくれました。日本チームの動きが速く運動量が多かったこと、技術が優れていたこと。「ラジオのアナウンサーが実況放送で『そこにもヤパーナ(日本人)、ここにもヤパーナ』と日本選手の方が多く見えると、ヤパーナ、ヤパーナを繰り返したので、しばらくそのアナウンサーはヤパーナのあだ名で呼ばれていたこと、日本人はシュネール(速い)と繰り返しアナウンサーが読んでいたこと。

――敗れたスウェーデンの人たちの内で戦後も語り伝えられていたのですね

賀川:サッカーのスウェーデン社会での大きさや歴史を改めて感じましたね。このときは…

――日本でも2016年に「殿堂」のおかげでもう一度歴史を振り返ることができました。

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原口、浅野のゴールでタイに勝利

2016/09/07(水)

2016/09/06
2018年FIFAワールドカップ アジア最終予選(Road to Russia)
日本 2(1-0、1-0)0 タイ

――勝ちました。2-0です

賀川:守りを厚くして失点を防ぎ、カウンターで得点しようというタイに対して、日本はサイドから攻撃をかけ、圧迫し、反復して攻め続けました。

――第一戦と先発メンバーを代えました。FWに岡崎ではなく浅野、MFには清武ではなく原口が入り、山口が大島に代わっていました

賀川:山口は、このチームのレギュラーだと思っていた。浅野はリオのオリンピック予選と本番で活躍し、新しくフル代表のFWに入ってきた新鋭といえるでしょう。速さという武器があって、相手側には脅威となるFWです。

――キックオフから攻撃が繰り返され、19分にゴールが生まれました

賀川:11分に左タッチ際でFKがあり、香川がファーポスト際へ蹴り、本田がヘディングでなかへ返したが、誰も中央へ飛び込まなかった。惜しい場面だった。

――この得点は、17分30秒に香川が右サイドでボールを拾い、スローインとなった後の攻めだった。そのスローインから右の酒井宏にわたって、酒井宏が早めのクロスを強いボールで送り込みました

賀川:ゴール正面にいた本田の上を越え、その背後にいた原口がヘディングシュートを決めた。ゴールキーパーの右手側を抜く、見事なヘディングでした。右・左のクロスを繰り返していた攻めのひとつですが、クロスの線上に日本側が3人入っていたことで、その一番外(ゴール正面)へ入ってきた原口がノーマークでした。

――この後も、再三チャンスをつくりました

賀川:23分に左から浅野がクロスを送り、本田がシュートできなかったのも惜しいチャンス。30分には右からの長いクロスを原口がノーマークで受けてシュートする場面もあった。

――41分には本田のシュートがあり、46分にも右からのクロスを本田がヘディングし、ポスト際でGKが防ぐなど、チャンスをつくった

賀川:相手の攻めを押さえ込んで、まず危なげない45分でしたね。

――後半も日本が攻め、タイが守り、ときに反撃する形が続いた。日本の攻めも、短いパスのつなぎだけでなく、早めに相手DFラインの裏へ出すボールや、長いパスが増え、18分には香川がノーマークでシュートして、GKが防ぐ場面もあった。

賀川:相手DFラインの裏へ出て、縦パスをもらってのシュートチャンスは、相手GKが飛び出してくるので、決してやさしいものではないが…

――浅野のスピードも生きてきた

賀川:25分にヒヤリとするピンチがあった。

――タイが右タッチラインのスローインからボールをつなぎ、鋭いスルーパスを右前へ送った。10番のティーラシルが飛び出して、エリア内へ持ち込んだところを、GK西川が飛び出して、シュートを顔にあてて防いだ。吉田が並走してフリーにしなかったことと、西川の飛び出しが、危ない場面を救った

賀川:ピンチにあとにチャンスありで、この3分後に日本が2点目を奪う。

――29分に左からのクロスを香川がヘディングして、ため息が出た後、ハーフウェイラインからの浮き球のパスを追って、浅野がDFに走り勝ち、右足のシュートを決めた。ゴールキーパーは体に当てたが、ボールはゴールに入った

賀川:攻め込んだ後、クリアされたボールをダイレクトで前へ送り、それを浅野が相手DFの後方からスタートして頭でボールを押し出し、エリア内に5メートルほど入ったところで、右足シュートしたのだった。シンプルな縦パスだったが、浅野の特色の生きたゴールだった。

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アラブの強国UAEに敗戦

2016/09/03(土)


日本代表 1(1-1、0-1)2 UAE戦

――楽しみにしていたワールドカップ予選の第1戦は1-2でした

賀川:最終予選だから、アジアの強いチームとの対戦になるとはファンの皆さんも覚悟はしていたはずですが、いきなりそれを見せつけられました。UAE(アラブ首長国連邦)のしっかり守ってカウンターという形が成功した。もちろん彼らの一人ひとりが局面の競り合い、ゴール前でのマークを確実に行ったことが彼らの成功となった。

――前半入ってすぐ、日本がボールを支配するようになり、前半11分に右FKから本田のヘディングで先制しました

賀川:FKの位置はペナルティエリア右外2から3メートルだった。キッカーの清武にはコントロールキックの範囲で、自信のある距離だった。彼は高くあがりつつファーポイント側へ落下するボールを蹴った。一番左外にいた本田が飛び込んでヘディングして、ボールは左ポスト内側に飛び込みました。

――テレビの前で、たくさんの人がこれで楽になると思ったでしょうね

賀川:UAEは20分に同点にしました。日本ゴールから9分後です。彼らが諦めることなく、日本のボールを奪いにくるプレーを続けていたのが生きました。

――この失点の少し前にも、日本は岡崎がDFラインの裏へ出て、シュートするチャンスもあったのです

賀川:そうですね。だが、岡崎のそのチャンスの前にもUAEのFKがあった。彼らの守りから攻めへの転換はなかなかのものという印象でした。

――その「守りから攻め」が20分のFKとゴールを生みます

賀川:日本が右側から攻め、本田がドリブルして一旦後方に戻って、バックパスした。これを長谷部が取り、すぐ右の大島に渡した。大島は右タッチライン際の酒井宏にパスした。この時の左足のインパクトが弱くて、パスのスピードが遅く、酒井に届く前に相手が一人潰しに来た。酒井は奪われまいと強く蹴り、これが中央へゴロでころがってUAEの10番のオマル・アブドゥラフマンのとこへ行った。アブドゥラフマンはすぐ中央へ来たマブフートにパスした。マブフートが突進し、吉田が止めようとしてファウルをとられた。

――マブフートが倒れたので、おやっと思ったらレフェリーが近寄り吉田にイエローカードを提示した

賀川:スロービデオを見ると吉田がマブフートのシャツを握ったところが映されていた。

――FKを蹴る前にUAEが色々かけ引きをしましたね

賀川:大切なFKだった。ボール際に3人が集まり、11番のハリルが右足で蹴った。シュートはゴール右上の方へ上がってから落下した。GK西川は両手で止めようとしたが左手にあたったボールはゴール内に落ちて1-1となった。

――西川は代表で難しいシュートを止めてきた実績があったが、今度は止められなかった

賀川:シュートの直前に西川は右へ(キッカーからみれば左)にステップしたように見えた。UAEが誰がどこへ蹴るかを読ませまいと事前のところに工夫をしたこともあった。

――レベルの高い戦い。さすがに最終予選だと改めて思いました

賀川:1-1になったあとも日本はよく攻めた。「これが入らないか」と驚くような場合も一度や二度ではなかった。ファンは前半が同点のまま終わったあとも、後半には何とかしてくれるだろうと期待していた。

――新しい選手もいますからね

賀川:普通なら遠征してきたチームは後半に動きの量が落ちるのだが、UAEはよく動いた。攻められるにつれて、守りの連係も強くなったように見えた。しっかりと準備してきたのでしょうね。

――日本側はヨーロッパ組がシーズン中で、全員がそろったのは2日前だった

賀川:それは初めから予想されたことですが、26本もシュートしながら、1本とったというような攻めが多くはなかった。

――後半9分にペナルティ(PK)のピンチがきた。相手一人に3人が奪いに行って、大島の脚が引っかかって倒し、PKとなった

賀川:PKというのは、私は一般論としてはキッカーが勝つのは当然と思っている。しかし心理面もあってゴールキーパーの方が優位に立つこともあります。PK戦になるとゴールキーパーがPKを防ぐ場面は増えています。

――いつも、GKは先に動くな、と言っていますね

賀川:相手のキックの方向を読んで蹴るより先に、その方向を防ぐ動きに出るゴールキーパーもいます。PK戦でもその成功例もあります、私はゴールキーパーはヤマはかけても相手が蹴るまで動かない方が得と考えています。1982年のワールドカップで西ドイツとフランスがPK戦で勝敗を決めた時からたくさんのPK戦や試合のPKを見てきた。また自分が選手であったころ、チーム内で試合中のPKは任されていた経験からいけば、GKは先に動かない方が得だと思っています。この試合では日本のGK西川は先に動いてしまい、相手は落ち着いて正面に切り込みました。

――このPKで1-2になりました。前半の互いのゴールはFKからで、3得点ともプレースキック(停止球)からでした。蹴り終わるまで相手がキッカーの「邪魔」をすることのないFK、CK、PKはやはり大きな得点源でした

賀川:1-2となってUAEは「守ってカウンター」に自信を持ったでしょう。

――ボールを保持して攻撃をつづけてから二つのミスでボールを失い、そこから攻め込まれてFKとPKで2点を失った日本ですが、1-2となってから何度も攻撃し、挽回をはかりました

賀川:いいシュートがあっても相手のDFの体に当たることもあり長身のGKエイサの好セーブもあってゴールは生まれないままに時間が過ぎた。

――ゴールキーパーが「のってくる」状態になると守る側にはいいが、攻める側はしんどい

賀川:UAEのイレブンは最後までよく動いて、自分たちのがんばりで勝運をつかんだ。日本側は26本ものシュートを打ちながら、点にならず、ゴールラインを越えたように見えたシュートも得点と認められなかった、相手の粘りに運が味方したということでしょう。

――試合中、何度か声が出ていました

賀川:日本の見事な先制ゴールは誰もが「うまいな」と言うでしょう。清武のクロスと本田のヘディングの合作、チームの動きで相手がゴール正面中央部に気を取られたことなどなど…

――そういう日本の攻めにUAEはよく守りました。ゴール前、ペナルティエリアでの守りだけでなく中盤でのプレスもよかった

賀川:それが日本のミスを起こし、彼らのゴールにつながるのですから。PKとなった場面でもペナルティエリア内で日本の3人を相手に囲まれながら、一旦倒れたあとボールを奪い返し前へ出ようとして日本側のトリッピングの反則を誘発させたのです。アラブ系の選手には年齢を問わず老獪なプレーをする人がいますが、今度のPKもそうでしたね。

――得点が1点に終わったのはやはりシュート力ということですか

賀川:運という言葉もありますが、サッカーではやはり実績がものをいいます。1試合に1点平均とはゆかなくてもそれに近い実績を残して(GKの能力アップでゴールを奪うのは難しくなっていますが…)いるようなストライカーが欲しいと誰もが思っているが、かつての釜本邦茂のような選手はなかなか現れません。

――まぁストライカー得点論、育成論は別に話してもらうとしても、この後の試合はどうですか?

賀川:UAE戦の負けは負けですが選手たちはともかく何度もせめて相手の3倍以上のシュートを打って得点できなかった。しかし、シュート練習は誰であってもしっかりと回数を重ねなければなりません。サッカーの技術の多くを身に付けている代表の選手たちがキックやシュートという最も基礎になるプレーを自分のものにするのは当然のことです。そのポジションに必要なキックを始め、その仕事に必要なキックを習得することはとても大切です。なんといってもサッカーは「蹴球(しゅうきゅう)」と昔から呼ばれ、ボールを蹴ることが重要とされてきました。今度の9月10日にJFAの殿堂入りするベルリン五輪の日本代表16選手の多くはキックの名手であったことを私はよく知っています。そうした先輩たちの後を継ぐ日本代表が練習によってちょっとしたコツを取り戻し、シュート力を向上させることはパスの能力アップやランの向上にもつながり、チーム全体が新しい力を備えることと思って見ています。

――アラブの強国UAEに第一戦を落としたからといって引き下がるわけにはいきませんね

賀川:アジア最終予選を戦うという大きな仕事を全員が一致して乗り切ってほしいものです。次のタイとのアウェイを楽しみたいと思っています。

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PK戦に強いドイツのPK戦負け

2016/08/23(火)

リオのオリンピック・サッカー(男子)の決勝はブラジル対ドイツという好カード。1-1の同点のまま90分と、さらに15分ハーフの延長が過ぎてPK戦となり、ブラジルが5-4で勝った。

PK戦が主要国際大会で初めて登場したのは1976年の欧州選手権で、ベオグラードでの決勝の西ドイツ対チェコスロバキアで2-2の後、チェコがPK戦を5-3で制した。このPK戦で敗れた西ドイツ(ドイツ)は以来ユーロやワールドカップでのPK戦には常に勝ってきた。選手にもPK戦についての意識が強かったのだろうが、PKを蹴る選手のオーダー(順番)にも工夫が見られ、私の頭の中には「PK戦はドイツが強い」が定説になっていた。それが、リオの決勝でブラジルに敗れた。

このPK戦はドイツが先に蹴り、両チームとも4人目まで成功し、ドイツの5人目のニルス・ペーターゼンがGKに防がれ失敗。ブラジルの5人目のネイマールが決めて、5-4として金メダルを獲得した。

失敗したペーターゼンという選手についてはよく知らないが、彼のキックの前の所作を見ると、ボールをプレースして、シュートに入るまでの時間がいささか短いようだったし、シュートそのもののコースを相手GKに読まれていた上に、コースがGKのリーチの範囲だった。シューターの失敗といえるだろう。

相手の5人目の失敗の後を受けて、ブラジルの5人目はネイマールだった。5人目という、ひとつの「けじめ」となるキッカーにブラジルはチームで最も信頼のおけるネイマールを置いたのは常識的であっても、正しい判断だった。ネイマールは相手GKに自分のコースを読ませずに右足でしっかりと決めた。

取材で立ち会ったビッグトーナメントでの最初のPK戦は1982年ワールドカップの準決勝、西ドイツ対フランスだった。それ以来、PK戦のドラマチックな面白さはサッカーの試合中のゴールとはまた別の楽しみとなった。

今度のオリンピックサッカーの決勝を見て、改めてPK戦の面白味を皆さんと話し合いたいと思っている。

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日本スポーツの底力を見た400mリレーの銀メダル

2016/08/22(月)

リオデジャネイロオリンピックが終わりました。テレビ放送のおかげで、とても楽しい夏の日々でした。

日本のメダル数は、これまでの最多でした。それぞれの競技のコーチや選手たちの努力や進歩を示すものとして、お祝いしたい。そして、なにより私にうれしいのは、陸上競技の400mリレーで銀メダルを獲得したこと。専門家やメディアはリレーのバトンタッチの技術のうまさをその原因にあげている。その通りには違いないが、日本の4人の走者の実力が前回より高くなっていることを証明したことが、とてもよかったと思っています。

もちろん日本の短距離がアメリカや英国より上とまでは言いません。100mの決勝に進出できなかったことが、それを語っていますが、今度の400mリレーでの快挙は日本のスポーツ界全体に「速く走ろう」という気風を高めるものと期待しています。長いオリンピックとの付き合いで、私は日本が100mの世界トップクラスののランナーを持っている時には、サッカーにもまた足の速い、いいプレーヤーがいたことを知っているからです。

リオデジャネイロ大会の閉会式で、東京の新しい女性知事さんがリオの市長から五輪旗を受け取りました。これからいよいよ東京オリンピックに向かっての会場の準備に向かうことになります。

今から52年前、1964年の東京オリンピックのときに新聞社のスポーツ記者であった私は、60年ローマ大会が終わって、いよいよ「東京」だぞと、日本のスポーツ人の気分が高揚したのを改めて思い出します。

2020年の大会を自分の目で見られることができれば、いま91歳の私にとっては、とても幸せなことになります。今度の大会(といってもすべて、テレビ観戦ですが)があまりにすばらしかったので、つい欲が出てきたというところでしょう。

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夏のオリンピック テレビ観戦

2016/08/15(月)

皆さん、テレビをご覧になっていますか。リオでのオリンピックは前半の体操、柔道などのメダルラッシュで盛り上がりました。

91歳の私は小学6年生のとき、1936年のベルリン・オリンピックの実況ラジオ放送を、わが家の電蓄(でんちく)- 電気蓄音機をこう呼んでいた -で深夜に聞いた覚えがあります。その内容については覚えていませんが、ガーガーという雑音の混じったアナウンサーの声を思い出しながら、80年後のいま、テレビの画面でさまざまのスポーツを、その全景から細部にいたるまで見せてもらっています。

1952年に産経新聞に入社してスポーツ記者となった私には、その年のヘルシンキ・オリンピックがジャーナリストとして出会った最初のオリンピックでした。特派員となった木村象雷(きむら・しょうらい)部長がタイプライターひとつを持って出発するのをかっこいいなと見送ったものです。以来、64年間、オリンピック大会は私には特別なものとなっています。

記者としてオリンピックを取材すること、そして特派員として海外のオリンピック大会に出かけることは、若いスポーツ記者にとっての願いでした。特派員の方は残念ながら機会に恵まれなかったのですが、オリンピック記者としての勉強を重ねたのを覚えています。
日本で一番盛んなスポーツ、野球はプロフェッショナルのセ・パのリーグがあって全国民に親しまれていますが、オリンピック大会の正式種目には入っておらず、今度のリオの大会でも開催されません。種目のほとんどは、野球やサッカーに比べると、日ごろ日本人の多くにはなじみの少ないものですが、それだけに試合の模様を丹念に画面に映し出すテレビ放送は多くの人をひきつけ、選手がそれぞれの国の国旗を付けたユニフォームを着て戦うのですから、応援に力が入ることになります。

サッカーも長い間、日本ではマイナースポーツだったのが、東京オリンピックで多くの国民が実際の国際試合を目の前で見たのが、今日の隆盛のもととなったのです。

そんなオリンピックの流れを思い浮かべながら、毎日のテレビを見る。ことさら暑いと言われ、年寄りは暑気あたりには注意しなさいと警告されながら、今年の夏は、誠にうれしいものとなっています。

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神戸FC・岩波拓也選手の壮行会

2016/07/19(火)

15日金曜日の夜、神戸磯上のKR&ACのホールで、神戸FC(フットボールクラブ)によるオリンピック代表の岩波拓也選手の壮行会に出席しました。

1963年、つまり東京オリンピックの前の年にスタートした兵庫サッカー友の会が1970年に神戸FCとなったのですが、その神戸FCで少年期を過ごした少年からリオデジャネイロ・オリンピックの日本代表が生まれたのです。クラブ発足のときの理事であった仲間は去り、いまでは私ひとりです。

神戸からは多くの日本代表が育ち、輝かしい実績を残しましたが、オリンピックの本番でプレーするとなると多くはありません。それだけに神戸で生まれ育ち、神戸FCでボールを蹴った岩波選手の五輪出場はクラブの会員にとって、とてもうれしいこと。会場は100人の出席者でいっぱいになりました。

クラブの少年会員(ボーイズ)たちの岩波選手に対するさまざまな質問もあり、新聞各紙の記者の取材もありで、2時間の壮行会はあっという間に過ぎました。

岩波選手は小学生のころから神戸市の選抜となり、ヴィッセルのユースからヴィッセルのプロとなり、オリンピックの日本代表となりました。ポジションはCDFで身長186センチ、ボールテクニックが確かで、日本の守りの柱となっています。壮行会での多くの会員からの質問や、かつてのコーチたちからの激励に対しての受け答えも丁寧で、誠実な人柄があらわれていました。

いまのサッカー界ではオリンピックはワールドカップよりも格下の大会とみる風潮がありますが、オリンピックはなんといってもオリンピックで、特に日本では全国民が注目するもの。リオデジャネイロでの日本代表の試合ぶりは日本サッカーの今後にとってもとても重要なものとなるはずです。岩波選手の顔を見ながら、彼がその大切な舞台でいいプレーをして、レベルアップしてほしいと心から願いました。

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Photo By H.Kato

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ペレの映画をみました

2016/07/18(月)

賀川:大阪駅のステーションシネマで上映中のペレの映画を見ました。映画が終わった時、冷房が効いているはずなのに、体が熱くなっていました。もちろんテーマがペレさん、ということもありますが、映画そのものも、よくできていて感動しました。サッカー好きはもちろん、スポーツに興味のある方々、ブラジルに関心のある皆さんに、ぜひご覧になっていただきたいと思いました。

――映画のタイトルは「ペレ 伝説の誕生」でしたね。

賀川:ペレの生い立ちと、ブラジルのフチボール(サッカー)の当時の背景がかなり詳しく紹介されています。プロ選手だった父親との、少年ペレとのボールのやり取りの場面や少年チームの試合などでは、ボールを扱う技術が上手でした。

――アメリカの製作者ですが、撮影はすべてブラジルで行ったそうですね

賀川:私はテレビででも映画でも、映像の製作者の努力にいつも敬意を払うのですが、今回は全世界の人がペレを知っていることを考えれば、作る側はとても大変だったでしょう。9歳と16歳の少年が選ばれ、それぞれの年代のペレを演じていて、これもよかった。

――ペレさんは1940年10月23日生まれで、現在75歳です。映画の中にも、今のペレさんが登場します。もちろん58年のワールドカップは試合のフィルムでも挿入されているので、ペレさんの実際のプレーも見ることができます。

賀川:ブラジルのサッカーがジンガ(GINGA)という黒人たちのフットボールを基礎にしているところ、このボール扱いの巧みさを競う遊びがブラジルのフチボールを支えているところをうまく描いています。

――賀川さんはペレのことは何度も書いていますが、月刊グランにも連載中ですね

賀川:中日新聞が発行しているグランパスのファン向けの月刊誌「グラン」にはずいぶん前から「人もの」の連載のページをもらっているのですが、ペレさんの映画のことを全く知らなかったのに7月号(6月発行)でペレさんを初めて書き、8月号(7月12日発行)がその2回目でした。

――内容は1、2回ともペレがサントスFCのメンバーで来日して、日本代表と試合をした時のプレーでした

賀川:サントスFCが3-0で勝った1972年5月26日、国立競技場での試合で、ペレはチームの2点目と3点目となる2得点をあげました。そのことから入って、ペレさんの紹介をしようとしています。

――1970年、ペレの3度目のワールドカップのときは取材に行けなかった。それだけに72年の来日での試合取材は賀川さんにはいいチャンスでしたね

賀川:私のいた新聞社では、私にサッカーの取材だけをさせてくれたわけではありません。それでも大阪から東京へ出かけて行ってペレの試合を生で見たのですから、とても幸いでした。

――72年のサントスでの現役としての来日の後、ペレさんは何度も来日しましたね

賀川:釜本選手が日本代表から離れる時もペレは来日しました。私が彼とゆっくり時間を持ったのは1984年の釜本邦茂の引退試合に来日してくれたとき。日本サッカー協会と日本サッカーリーグ、そして釜本のいたチーム、ヤンマーなどと話し合い、8月25日に国立競技場でヤンマー対日本リーグ選抜の試合を行い、リーグ選抜に特別招待選手としてペレさんとドイツのボルフガング・オベラートの2人に加わってもらったのです。

――あの引退試合で、国立競技場が満員になりました。80年代は日本代表もアジアで勝てなくて、代表の試合でも観客が少なかったのに、引退試合は文字通り満員でした

賀川:釜本邦茂という選手の人気や運の強さもあったのでしょうが、ペレさんが来てくれたこともあって、大成功でしたね。

――試合の後で、ペレが釜本を肩車して歩きましたね

賀川:釜本は引退試合でゴールするという彼ならではのプレーを見せましたが、ペレも試合の大半の時間をプレーし、オベラートとともに、この試合を盛り上げてくれました。試合中に彼は自分の気持ちの高まりとともに素晴らしいプレーをするのですが、この試合でもオーバーヘッドキックまで披露しましたよ。そして、その高揚した気持ちが試合後に肩車にあらわれたのです。41歳の小柄なペレさんが、あの釜本を担いだのです。

たくさんの人がこの映画をきっかけに、私たちはペレと同時代に生きたという幸せを味わってほしいと願っています。

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【お知らせ】記事掲載のお知らせ

2016/06/07(火)

本日(6月7日)の読売新聞に

91歳の夢 ネット寄付で

としてクラウドファンディングについての記事が掲載されました。

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【お知らせ】「90歳のサッカー記者 日韓 歴史の宿命」再放送が決定

2016/05/13(金)

昨夏に放映いただいたドキュメンタリーの再放送が決定しました。
読売テレビにて、5月16日(月)午前3時から30分間です。

「90歳のサッカー記者 日韓 歴史の宿命」
(初回放送:2015年7月5日)
http://www.ytv.co.jp/program-weekly/

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